私は、社会人4年目になった。次第に社会の渦に埋もれ、女性であるということを嫌でも感じるようになっている。さらりと男性を交わすことも学んだが、どうしても年上のおじさんの交わし方、「NO」の言い方がわからない。それが取引先となるとさらに億劫だ。学生の頃の自分が今の自分を見たらどう思うのだろうか。

ジェンダーについて学んで、窮屈だった私の世界が変わった

大学生のときアメリカに留学していた私は、ジェンダー学を専攻した。そして、尊敬している教授が「自分はフェミニストだ」とある日の授業で言ったのだ。特に何か特別なアクティビストとして活動しているというわけではない。ただ自然に「私は、女性だ」と言っているときと同様のトーンで言った。その教授は「ただ純粋に自分の娘が搾取されず、娘らしく生きられるように育てたい」と言っていた。私はそのとき、それもフェミニズムの考え方なのだと知った。

フェミニスト=女性と考える人も多いと思うが、それも違う。どんな性別、ジェンダーを持つ人でもなれるし、男性を排除するものではない。
私は、フェミニズムを学ぶようになってから、世界の見方ががらりと変わり、あらゆることから開放された。そして自分が思い詰めていたことは、決して自分のせいではなかったことがわかった。

今まで蓋をしていた部活でのセクハラ被害は、自分のせいではなかったこと。女子力という言葉に苦しめられ、料理が苦手な自分に負い目を感じていたこと。ミニスカートなどは穿けなくなったことなど、あげたらきりがない。

フェミニズムを学んでから、セクハラをされた友達のために、加害者に「そういうのやめなよ」と注意した。何だか自分が誇らしくなった。そして私は、自分を守るため、そして大事な人が傷つかないためにフェミニストになろうと決めた。

もう逃げない!恐れず言おう「やめて、私はフェミニスト」

それから社会人になった今、日本の企業で働き、あらゆる女性蔑視的な言動にただ流されている。諦めたわけではないが、何かが壊れてしまうのではないかと思って何も言えないのだ。何だかフェミニストのかけらもなくなって、惨めだった。

ある日、取引先のおじさんとカラオケに行った。歌っている途中に急に手を握られ、抱き寄せられた。お互い酔っていたし、私はすごく嫌だなと思ったけど、手を振り解くこともできなかった。自分は女だし、取引先の人だから仕方ないと思った。ただ、次の朝思い返したら悔しくて悲しくて、実家の母親に連絡して、ぽつりと話した。母は「次されたときは、そいういうのやめてくださいってはっきり言いなさい、絶対にだよ」と言われた。頭を殴られたような気分だった。学生の頃の自分だったら言えたのに、何で「NO」と言えなかったんだろうと激しく後悔した。次は相手が誰であろうと言わねばならない。それは自分のためでもあるし、これから被害を受けてしまうかもしれない人のためであるのだと今では思う。

私は自分を大事にしたい。そして、私の大切な友人や同僚が傷つかない社会にしたい。それを実現するには、私に存在するフェミニストの自覚を呼び覚まし、抗うしかないのだと思う。「I’m a feminist(私はフェミニストだ)」と素直に公言できるように、学生の頃の私に負けないように強くなろうと再び誓った。