私は一重まぶただ。それも超“負け組”の。

生まれてから29年、ずっと世の中の美の価値観に苦しめられてきた。

一重の中でもまぶたの皮膚が薄くて目が大きい、いわゆる“勝ち組一重”と呼ばれるまぶたとは違い、私のような“負け組一重”はどんなに強力なアイプチを使ってもまぶたの厚みで二重のクセはつかないし、蒙古襞もあるので、すっぴん真顔の状態だとそりゃあもう絶望的に目つきが悪い。

化粧のできない小・中学生時代はよく「怒ってる?」と聞かれたものだ。1ミリも怒ってなんかいないのに、そう言われる度に悲しくて、ヘラヘラ笑う癖がついてしまった。

負け組一重を持つ私は、ずっと外見のコンプレックスに苦しんできた

世の中の雑誌を見ると、モデルはほぼ全員ぱっちり二重、または奥二重だ。私は、負け組一重のモデルを今のところ見たことがない。近頃、幅広い悩みに寄り添った化粧特集で、“一重さん向けのアイメイク特集”なども見かけるが、そこに出てくるモデルは大抵、“勝ち一重”で、ビューラーでまぶたを上げればぱっちりとした目になるような人ばかり。太っといアイラインを引いても、まぶたに隠れて見えなくなるような“負け組一重”の自分には、雑誌に載っているメイク方法を再現したくてもできないのだ。

最近、動画サイトで一重のメイク方法を紹介する動画も数多くアップロードされている。一重のままのメイクは参考になることもあるが、その多くは腫れぼったい一重をいかにすっきり大きく見せるかという部分に焦点が当てられている気がする。

アイプチやつけまつ毛を駆使してぱっちり二重にして、まるで整形したかのようなすっぴんとのビフォーアフターを紹介するようなものも多い。外国人のように目がクリクリのぱっちり二重で、ビューラーでまつ毛をくるんと上げて、アイシャドウは二重幅に濃い色を塗ってグラデーションをつくって…。

“二重=可愛い”、そんな世の中の美の価値観とは正反対の負け組一重を持つ私は、ずっとずっと外見のコンプレックスに苦しんできた。一重メイクを紹介する人もきっと、私と同じように苦しんできたのだろうと思う。

「美の基準」は時代と共に変わる曖昧なものなのかもしれない

以前、過去の“美人の基準”を調べたことがあり、どうやら江戸時代は切れ長の一重のほうが美人とされていたらしい。ああ、江戸時代に生まれていたら、私はもしかすると絶世の美女ともてはやされていたかもしれない。

残念ながら現代に生まれてしまったので、29年生きてきた今も外見コンプレックスから抜け出せずにいるのだが、美の基準とは時代が変われば180°変わる曖昧なものだなと思う。

本来ならまぶたにシワが1本入っていようがなかろうが、その人の魅力には1ミリも関係ない。好きな芸能人が人それぞれ違うように、顔の好みだって人それぞれ違うし、全員が一概に二重を美しいと思うかといわれたら、きっとそうではないことも分かっている。

それでも、世の中には、“二重=美しい”という価値観が刷り込まれるような雑誌や二重まぶた化粧品や整形クリニックの広告ばかり。誰かが勝手につくり出した、時代が変われば正反対の価値観になるかもしれない曖昧な“美しさの基準”に苦しめられている。

たった1本、まぶたのシワがあるかないかの違いだけで。

それでも、私は整形をしようとは思わない。二重になれば幸せになれるかと聞かれたら、答えは「NO」だからだ。もし仮に、明日の朝起きたら自分の理想とする外見になっていたとしよう。でも、そうなったとして、何がしたいか?と考えてみると、そんなにやりたいことが思いつかない。

外見が整ったからといって理想の人生になるかといわれたら、そうではない気がしてならない。

コンプレックスだらけの人生だけど、自分の味方でいたい

突き詰めて考えれば…
自分のことを好きな自分でいられて、自分らしく生きられて、自分に自信を持てる人生なら幸せなんじゃないかと思う。

「怒ってる?」と友達に言われたり、雑誌のモデルの外見とかけ離れていると気づいたりと、きっかけが積み重なって、自分のことをそのまま受け入れられなくなってしまった。

自分に自信を持って可愛い服を着ると、誰かにブスと思われているんじゃないかって怖くて。

「一重の自分はどうせ何をやっても可愛くなれるはずがない」と、思い込み自分を嫌いになることで、誰から何を言われても傷つかないように、逆に自分を守っていたのかもしれない。30代を目の前に、今までの自分を振り返ってそんなことを考えている。

それでも私は私だし、どんな外見でもこれからずっと、寿命が尽きるまでは私として生きていくしかない。

まだまだ、自分のことは好きになれないしコンプレックスだらけの人生だけど、これからは自分だけは自分の味方でいてあげられるような人生を歩んでいきたいと思う。