私は小さい頃から父に似た、太く長いボリュームのある自分の眉毛が大嫌いだった。
弟は母に似て、細くて薄い綺麗な眉毛の形をしていたから余計にこの剛毛の眉毛を鏡で見るのが嫌だった。

鏡に映った私の眉毛は、世の中の「美」のイメージとかけ離れていた

思春期真っ只中の中学生になると、親に内緒で初めて眉毛を剃った。
当時はまだYouTubeが出来たばかりの頃で、インターネットで眉毛の剃り方を検索する発想も私にはなかったから、我流で気に入らないと思う箇所をカミソリでどんどん剃り進めた。
右を剃りすぎたと思えば、右に合わせようと今度は左を剃りすぎる。
そんなことを繰り返し、ふと目の前の鏡を見ると眉尻はほとんど消えかかり、眉山もない、左右非対称な細い線が二本、目の上に並んでいた。
「失敗した」
瞬時にそう思った。
剃った毛が急に生えてこないことくらい十三歳の私にだって分かっていた。
親に黙って眉毛を整えたことに対する謎の罪悪感、これだったらゲジゲジ眉毛の方がまだマシだったのではないかという失望感でいっぱいだった。
鏡に映った眉毛とその顔はさらに最悪になった、と。

美しい眉毛のイメージが何歳の時に形成されたのかよく覚えていない。
顔に対する美醜の概念やボディイメージが一体いつ・どこで・どうやって形作られたかもよく分からない。
テレビや雑誌で見る「美しい」「綺麗」と言われる女性の造形が、いつの間にか私の中で絶対的な正解で、社会の中でも絶対的な「美」の正解なのだと信じて疑わなかった。
だからその価値基準からこぼれる私は醜い。
ゲジゲジで太くて濃い私の眉毛は醜いのだ、と。

希望を抱いては、落胆の繰り返し。大嫌いな眉毛を隠して過ごした

次の日の朝、失敗した眉毛はあっけなく母にバレ、自分で勝手にやるからだと言われた。
仕方がないので前髪でいびつな眉毛を隠し、びくびくしながら電車に乗り学校へ向かった。
その日はしきりに前髪を触って仲が良い友達の前でさえおどおどしていた。
私は自分の眉毛をますます嫌った。
誰かに笑われるかもしれない恐怖も大きくなった。
他者からの嘲笑は、少なくとも思春期の私にとっては死にたくなるくらい恐ろしい事だった。

不格好な眉毛が、元のゲジゲジ眉毛に戻るまで前髪で隠し続けた。
だけど少しでも太くなると、私は懲りずにまたカミソリを走らせ、案の定失敗した。
その度に母に「元通りになるまで我慢しないと整えられないでしょ」「勝手にしなさい」と呆れられた。
眉毛を触りたくなるのをなんとか我慢し、ついに母に眉を整えてもらったのは初めて自分で眉毛を剃ってから四、五か月は経っていたと思う。
「今度こそきっと大丈夫、だって母がやってくれるのだから」

そう思っていたのに、実際に鏡で見る私の眉は相変わらず、太く、毛が長く、濃いままだった。
落胆という言葉はまさにああいう気持ちの時に使うのだろう。
今なら母が整えてくれた眉毛はゲジゲジ眉毛でなくなっていたと分かるけれど、その時は自分の濃い眉毛の印象が何一つ変化していなくて、ひどく裏切られた気分だった。
高校生になっても時折、眉を整えてみては上手くいかず、それでもゲジゲジ眉毛よりは良いはず、と思い込み、誰にも大嫌いな眉毛のことを打ち明けず三年間を過ごした。

コンプレックスを初めて好きになれた、私の心強いお守りの言葉

高校を卒業した三月。
母に連れられ、銀座の資生堂へ行った。
そこでBAさんに眉毛を整えてもらった。もちろんお金も払って。
鏡に映った私の眉毛はやっぱり太く、毛が長く、濃かったけれど、眉山もあったし、眉頭も眉尻も整えられていた。
そこには私の大嫌いだったゲジゲジ眉毛はなく、堂々とした凛々しい眉毛があった。
眉毛を無理に剃るのではなく、自分に合うように整えただけでこんなに表情が変わるのか。

嬉しかった。

自分の眉毛がコンプレックスだとBAさんに正直に話すと、お姉さんは「人の顔ってパーツが実は左右対称じゃないんです。だから左右で眉の高さや形が違うのは普通のことなんですよ」と優しく答えてくれた。
そして私の場合は左が少し高いから、右に合わせるようにすると良いこと。毛が長く太いのは決して悪いことでも、ディスアドバンテージでもないことを丁寧に教えてくれた。

ほどなく世間に太眉ブームがやってきた。
凛々しい眉毛になったという自信と流行が相まって、自分の眉毛を私は生まれて初めて好きになれた。
なによりBAさんの「ボリュームがあって長くて綺麗な眉毛です」という言葉が、たとえそれがセールストークやリップサービスの類であっても、十八歳の私には心強いお守りだった。
そして十年経った二十八歳になった今でも変わらずお守りとして私の中にある。

悩んでいるあなたへ伝えたい。あなたはあなたのままで美しい

「美しい」「綺麗」の価値基準はゲジゲジ眉毛に悩んだ十三歳の頃よりずっと多様になり自由になってきた。
それでもなお、無意識に刷り込まれた美のイメージに囚われてしまうことがある。
けれどあの時、私を救ってくれたお守り、自分の大嫌いをほんの少し好きになれる言葉を、今なら過去の私に言ってあげられる。そしてコンプレックスを抱え悩んでいる誰かに「あなたはあなたのままで美しい」と伝えたい。