自傷行為に悩む友人に言われた。
「食べることは生きること。だから正常だよね。摂食障害は理解されやすくて羨ましい」
それに比べて、自分の悩みは理解されにくいのだと。

友人の苦悩に大きく首肯した。
と同時に、彼女は摂食障害を理解していないと思った。食べることは生きることだから正常ではあるけれど、摂食障害は欲望をコントロールできない人間と見なされがちである。本人でさえ自分は怠けていると自責してしまうのに。摂食障害の辛さも理解されにくいのだ。思っただけで口にはしなかったけれど。

なんでこんなに惨めなんだろう。過度な摂食制限と過食を繰り返す日々

摂食障害と診断されたのは、小学五年生の時だ。
制限と過食を繰り返し体重±15kg、体脂肪率±15%を彷徨う。制限期は朝はりんご、昼は無調整豆乳とプチトマト、夜はもずくとゆで卵というようにメニューを決めて、狂ったように筋トレをする。サンダルが重りのようで、階段を三段上がるだけでも息が切れる。それでもノルマを律儀に守る度、自分の価値が上がっていくようで自分を認めてあげられる。反対にルール違反をした時は死んでしまいたいという言葉だけが頭の中をぐるぐると駆け巡る。投げやりになってそのまま過食に走り、次の日から絶食することもよくあった。

過食期は死期に人目のない場所へ向かう猫になった気分になる。誰も知らない醜い私。胃はゴミ箱で味わう間もなく食材を詰め込む。私は指や道具を使って嘔吐したことがない。しかし胃がキャパオーバーになり物理的に身体が嘔吐を起こす。または膨らんだお腹を見ると自分の身体が気持ち悪くて、許せないという気持ちから吐いてしまう。その後はお手洗いの床に座り込み自己嫌悪に陥る。冷や汗が吹き出して前髪までぐっしょりと濡れ、激しい動悸が私を襲って毎回、死んでしまうのかなと本気で思う。今死んだら一人暮らしの私の死体はいつ発見されるのだろう。親が来て、食べ散らかした部屋を見て何を思うのだろう。何故こんなにも惨めな思いをしなければならないのだろう。こんなことを続けていたら早死にしちゃうよ。胃酸で喉が焼けて痛み、眠りにもつけず虚な意識の中でそんなことばかりを考えていた。

容姿で一変する、他人の評価。本当の私は何も変わっていないのに

小学生の頃、私は飛び抜けて背が高かったので体重が周りより重いのは当然だった。ところが身体測定で表示される数字を見て男子達にデブだのデカだの揶揄われた。女子達は「ひどい!謝りなよ!」と叱ってくれたが、私を慰める柔らかい微笑みにどこか"私は遊花みたいな身体じゃなくてよかった"とホッとしている様子が見えた。このストレスを食べることで発散するようになったのが全ての始まりだ。

その後、ダイエットに成功すると扱いが一変した。学校の人、道端で通り過ぎる人、性別年齢問わず人が優しくなった。掌返しもいいところだ。知らない人がお会計を済ませてくれていたり、罰ゲームが免除されたりと得をするのが日常になる。ここで、見返せた!生きるのが楽しくなった!と思えればどれほど楽だろう。

中学ではクラスの優しい人ランキングで3位だった私が、高校ではイケている女子ランキングで学年1位と卒業文集に記されていたのを見て、死にたくなった。私は何も変わっていないのに、と心で叫んだ。私は容姿で見下されるのも容姿で煽てられるのも同じように泣き出したくなる。ただ仲良くなりたい一心で話しかけた子に容姿の話を持ち出されて、「一緒にいると壁を感じて苦しい」と言われたのが一番悲しかった。こうして再びストレスで過食に戻った。そしてふくよかになればまた人の反応が変わる。これを繰り返すほどどんどん人が嫌いになった。

自惚れの恋人も、深入りしない母親も。誰かに理解してほしかった

当時の恋人に摂食障害がバレた時、彼は「可哀想に。僕を頼って。助けてあげたい」みたいなことを言った。しかしそれは彼のヒーローになりたい欲の餌食になることを意味した。医者でさえ治すことが難しい摂食障害を彼の自惚れな格好つけで治せるはずがない。最後には自分で決着をつけるしかないのだと思う。予想通り、過食の現場を目撃した彼に「食べ物を粗末にするなんて。世界には食べたくても食べられない子ども達が沢山いるんだ」と冷たい目で説教された。私は、いい人になりたい人達に利用されたくないから摂食障害であることを隠しているのかもしれない。

酷い過食から抜け出せたのは誰のおかげでもなかった。貯金が底つきたのだ。これまでいくらドブに捨ててきたのかを考えると頭がおかしくなる。おにぎり一つ買うお金もなくて家にあったバターや砂糖、蜂蜜をそのまま食べた。痩せる太る以前に生活ができない。プライドを捨てて母にお金を貸してほしいと頼んだ。申し訳なさと恥ずかしさで消えそうだった。
勇気を出して事情を説明すると「生理前?気にしすぎだよ。食べ過ぎちゃう日もある。そんなこと言ってネットショッピングで無駄遣いしたんじゃない?」と呆気なくお金をくれた。咎めない母の優しさなのだろうか。でも私は、疑われているような、軽くあしらわれたような気がして話したことを後悔した。

「痩せたい」より「人を傷つけたくない」と思えた自分に嬉しくなった

過食が不可能になったこととコロナウイルスで人目に触れる機会が減ったことで、最近は人並みの食事ができている。それでも何を食べたらいいのか分からなくなりスーパーを2時間歩き回る日もある。

先日、高校時代の友人達と久しぶりに会い、ダイエットの話題になった。私は当たり前に「私も夏が来る前に痩せなきゃ~」と相槌を打っていた。帰りの電車、もう痩せたい気持ちなど消え失せているのにどうしてあんなことを言ってしまったのか、摂食障害を隠している私のような人がいたかもしれないのに、痩せていることこそ正しいという会話にどうして乗っかってしまったのかと後悔した。

だが"痩せたい"より"人を傷つけたくない"、"正しいことを正しいと言える人になりたい"と思えている自分に嬉しくなった。そして、もし今度似たような場面が来ても同調しないと小さく誓った。上手い返しが思いつかなければムッと押し黙ればいい。痩せたいのその先へ、私は行くんだ。