友達からの電話に出るときは、平日の仕事終わりや休日に限らず、毎回決まってと言っていいほど渋谷にいた。
最初は彼らも、なぜいつも私が渋谷にいるのかを尋ねてくることもあったが、あまりにもそんなことが多いので、長い付き合いの友達にはもういちいち尋ねられることもないし、もはや呆れられている…と思う。でも、その5秒後には「聞いてよ」と彼らの本題が始まるのできっとさほど気になるようなことではないのだ。
友達の私に対するイメージは正直どのようなものかは分からないが、まあ、誰かと遊んでいるんだろうな、とかそのような類だろう。

渋谷だけはひとりでいることを許してくれる街

皆さんの“渋谷の街”のイメージはどのようなものだろうか?
若者の街?遊びの街?騒がしい街?ファッションの街?
いずれにしても、“ひとり”というイメージからはかけ離れた場所であると思う。

そんな街に、私は決まってひとりでいた。
渋谷だけはひとりでいることを許してくれる街のような気がしていたからだ。
しかし、なぜかずっとまわりの人には「渋谷が好き」と大きな声で公言することは少し恥ずかしいような気がしていた。
田舎者、とか、もう若くないのに、とかそんなことを思われるような気がして。

そもそも私はなぜこんなにも渋谷に逃げるように訪れるようになったのだろうか。
生まれて初めて渋谷を訪れたのは、確か中学2年生だった。田舎者だと思われることを気にしてると先ほど述べたのだが、実際に田舎生まれ田舎育ちだった私は当時、友達数人と一緒に(グループには1人はいるおしゃれな友達の提案で)109や原宿の竹下通りで買い物をした。
でもその当時は渋谷にハマることは全くなく、むしろ都会の雰囲気に疲労感を感じ、地元に帰って来るとホッと安心したほどだった。
その後上京をしても、そんなイメージもあったせいかすぐにはハマることはなかった。

渋谷は、他人を気にしない人の集まりのような気がした

ある日、渋谷という街を客観的に見た瞬間があった。
当時付き合っていた彼が、私の落ち込んでいる気分を晴らすために、バイクの後ろに乗せくれ、向かったのがこの街だった。
いつも遊びに行く渋谷の街が、その日は違って見えたのだ。
スクランブル交差点をバイクで横切ったときに初めて見た、渋谷の街の本当の顔。

私は普段歩くときは下を向きがちで人の顔を見ることはない。向かいから歩いてくる人と目が合うのは怖いしなんとなく気まずいし、とにかく“ひとり”のときの私は、普段の明るいテンションとは違い、暗く俯き加減の別人なので誰かに気付かれたくもないからだ。

バイクに乗りながら客観的に見た渋谷は、実はそんな人の集まりのような気がした。
他人に興味のある人が集まる場所とばかり勝手に思っていたが、違ったのかもしれない。むしろ他人を気にしてはいない。一人ひとりが街全体に上手く紛れているだけで、みんなひとりなのかもしれない。

それから、悲しいことや辛いことがあると必ず渋谷に行くようになった。いつでも誰でも受け入れてくれて、ずっと息をしている街。日常の生きづらさを和らげてくれる場所、普通じゃなくてもいいのだ、と安心できる場所。

辛いことがあってもこの場所だけは味方でいてくれる

考えてみたら、幼いころから泣く場所を決めていたと思う。それは地元の公園だったり。だから、今でも引越しをしてから最初にやることは近くの公園探しである。

誰かに頼ることはとても苦手だったが、場所になら全力で頼ることができる。
拒まれることはないし、迷惑をかけることもないからだ。
もし同じ悩みを抱えて苦しんでいる人は試しに、辛いことがあったら渋谷の街に来てみてほしい。あるいは近くの公園でもいい。とにかく、辛いことがあってもこの場所だけは味方でいてくれる、という場所を見つけてほしい。

そこで何かをする必要はない。
お財布以外なにも持たず、カフェなどでゆっくりするだけでも、手ぶらで公園に来て遊具に腰掛けるだけでもいい。

誰も分かってくれない、やりきれないことがあったら、そのことから逃げることは簡単には難しい。
辛いことがあっても、その場を耐えたあなたはとても偉いと思う。

そんなときに、今日はこの辛いことが終わったらあの場所に行こう、と思える場所を見つけてほしいのだ。きっとあなたを受け止めてくれるはずだから。