精神的に参ってしまうと、やけ食いするタイプと何も喉に通らないタイプの人に分かれると思うが、私は後者だ。
経験するまでは、味がわからなくなったり、全身が食べ物を拒否したりするとか想像もつかなかったけど、ある経験で身に染みてわかった。
人生初の挫折を経験した私は、「食べること」ができなくなった
私は今年から大学1年生になった。1年の浪人期間を経て、やっと掴みとった春だ。
浪人したということは、高3の受験には失敗したというわけで。先生方や友達から第1志望の大学に受かるだろうと太鼓判を押されていたにも関わらず、センター試験で得意科目が全然得点できずに終わり、高3の私の合格は2次試験を前に消え去った。学校で自己採点を終えて、人生初めての大きな挫折と、破裂しそうな頭と心を抱えて家に帰った。
その日の夕食は、あまりの吐き気にほとんど食べることができなかった。胴体がきつく鎖で縛られ、何か食べようとすると鎖がぎゅっと締まって体の外に食べ物を押し出そうとする。食べ物の匂いでさえも吐き気を煽る。そんな感覚、自分でもこんな体験はしたことがなくて、ただただ戸惑うしかなかった。
次の日の朝食も食べるのになかなか苦労した。私と弟が朝からエネルギーをしっかり補給して1日を始められるように、母の用意する朝ごはんは私たちが小さい頃から多めだ。私も朝からしっかり食べないといけない体になっていることを理解していたから、その時から「食べる」というより「押し込む」ことに専念した。
味のしない食パンをちぎっては口に入れ、拒む体に抗って咀嚼し、飲み込む。もちろん、今までは食パンの味もちゃんと感じていたし、むしろ好きだった。食べることが辛いのではなくて、母の出してくれたご飯をおいしく食べられないことが辛かった。私に向けられた母の愛情を拒否しているかのように思えたから。
また、拒否反応はこれで終わってくれなかった。せっかく何とか体内に押し込んだ食べ物を、上手く消化できなかった。「押し込み」が終わると、耐えきれずにすぐにトイレに駆け込み、吐いた。
私に食べられるために生きていたわけではない動植物の命を頂き、この食べ物は私の体の一部になるはずだったのに。そう考えると情けなくて、食べ物にも母にも申し訳なくて、涙が止まらなかった。
食べ物をおいしく感じることが、嬉しいなんて知らなかった…
生きるために栄養を摂取しないといけない。それには食べるしかない、けれど、すぐに吐き出してしまう。今まで生きてきた中で最悪の1週間だった。体重は2kg落ち、コンプレックスの丸顔を惜しむくらい、頬がこけた。
これから進路をどうして良いのかも皆目わからず、人間という1つの生き物としても正常な体でいられない。栄養摂取だけが目的の食事がこんなにも辛く、食べ物をおいしく食べられていたことがこんなにも幸せだったのかと、今さらながらに痛感した。それはある意味人間としての尊厳なのかもしれない。人としておいしさを感じられず、生きた心地がしなかった。
その後、両親の許しを得て浪人することを決め、来年の練習として2次試験を受けるために勉強を再開した。そうしている内に、徐々にではあるがちゃんとご飯を食べられるようになった。食べ物をおいしく感じられることが、こんなにも嬉しいことだとは。今まで学校で受けた食物学習などは、あまり身に入って来なかったけれど、今なら真剣に向き合える気がする。
人にとって、食べることと生きることは同義なのかもしれない。もちろん、食べることには「おいしく」の要素も忘れてはならない。
挫折を経験したからわかった「おいしい=幸福」の公式
現在、私はひとり暮らしをしている。大学の食堂をメインに使う予定だったのに、このコロナの状況下では、それもままならないので、初めて自炊を始めた。父も母も、まさか私が自炊をするとは思っていなかったから、部屋の冷蔵庫は身長160cmの私の腰骨ほどの高さしかない小さなものだ。
だから、1週間に1度の買い物をした後は冷蔵庫内が密になる。しかも、特に傷みやすい野菜類が好きなので、いかに取りこぼさずに食べるかに気を遣わないといけない。でも、こうして料理を作って食べられることが、今、とても幸せだ。
あの挫折はもう2度とごめんだけれど、おいしさの幸福に気づくには良い機会だった。これからも、食事に手を抜かず、おいしく食べて生きていきたい。