「お母さん、このクレープが600円でしょ。だったら、私日曜日に半額でスーパーカップを10個買いたい」

今思えば、本当に可愛げのない子どもだった

なんとも可愛げのない子どもだったのだろうと思う。
私はめちゃくちゃケチだった。ケチと言うか、常に自分の中での基準と比較し、高い・低いを判断して、その場限りの贅沢、なんてものは敵だと思っていた。
それこそ、遊園地に連れて行ってもらい、「クレープ食べる?」と言ってくれた母に、冒頭の言葉を浴びせるような。

私はそれはそれはアイスが大好きで、特にスーパーカップがお気に入りだった。昔、アイスの値段は100円くらいで、更に日曜日に家の近くのスーパーでは半額で売っていた。だから、今この一瞬のために600円払うなら、日曜日まで待ってアイスを10個(正確にいうと、消費税を含めても11個くらい買えるんだけどね)の方がいいなと思っていた。

「アイスは別に買ってあげるから。食べたかったら一緒に食べよう?」という母に、この人は何も分かってないなと思ったものだった。今ここで使う600円が無駄だというのに。

後は、ガソリン代。
昔、ポケモンのゲームが大好きだった私は、誕生日やクリスマスに買ってもらえる5000円くらいのソフトがそれはそれは大事だった。
だから、ある日ガソリンスタンドで、ガソリン代(ガソリンを入れる度にメーターが動く)をたまたま見て、「1回ガソリンを入れるだけでゲームソフトが1本買える!」と衝撃を受けてからは、しばらく「車に乗らず歩いていくから、ソフトを買ってくれ」と交渉するようになった。

これは、果たして、アイス◯個分の価値があるのか…?

その頃は、10万円あれば一生遊んで暮らせると思っていたし、おばあちゃんがくれた500円に大喜びしていると、「りあちゃんも中学生になる頃には、500円には喜ばなくなるよ」といった言葉に、そんな罰当たりな子どもには絶対にならない、と思っていた。

小学校で修学旅行に行ったときは、お土産をみんなが買っているのを見て、なんでこんなものにそんなにお金を払うんだろう、普通に近くのデパートにあったら、絶対に買わないだろうに、と本気で不思議がった。

思えば、その頃の私は「お金」ではなく、「アイス」や「ゲームソフト」などモノの値段を測っていたのだと思う。
これは、果たして、アイス◯個分の価値があるのか…?

そんな私も、中学生、高校生になるにつれて、モノの値段は需要と供給のバランスで決まることや、物流の仕組みなどを理解するようになってきた。
前までは、洋服 vs アイス、のような構図があったが、そのときには、洋服は洋服で相場があって、その中でこれは高い、安い、と考える様になっていった。

その時の体験は、その後の人生をプラスにしてくれる

そんななか、私が大学で仲良くなった友達は、「モノ」ではなく「体験」にお金を使う、ということを教えてくれた。
私としては、残るものにお金を払ったほうがいいでしょ、と思っていたのが、見事にひっくり返された。

事件が起こったのは、旅行の計画を一緒に立てているとき。私は宿なんてどうせ寝るだけだし、なんにも残らないのであれば別のところにお金を使いたい、と伝えた。その時、彼女は珍しく意見を譲らなかった。

ちょっといい旅館に泊まって、美味しい料理を食べる。その時の体験は、その後の人生をプラスにしてくれるよ、その場限りのものなんかじゃない。
そう言うので、試しに旅行の計画はその友達に任せた。

その旅館に泊まってみると、それはそれは素敵な時間が過ごせた。
建物全体が和で統一され、畳の匂い、節々を飾る花、落ち着いた声で話しかけてくださる女将さん。貸し出しの浴衣はとてもかわいかったし、出てきた料理は自分では絶対に買わないような山菜がふんだんに使われていた。

今でも、あの旅館のことは覚えている。仕事に疲れたら、しばらく頑張ってお休みを取ってまた行こうとか、彼女と会うときは「あの旅館の温泉気持ちよかったねー」と話すとか、その瞬間自体が宝物になった。

きっと、私がお母さんと一緒に遊園地でクレープを食べていたなら、それはきっと価値が測れない素敵なものになっていたのかもしれない。

これからは、モノそのものの値段より、そのモノを通して得た体験にお金を払って生きていきたいと思う。