呼吸をするように、わたしはずっと、食べていた。
わたしは、食べることが好きだ。美味しいものを食べると気持ちが高まるし、しょぼくれていても元気になれる。何よりそれを囲んで友人たちと談笑する時間は、人見知りで話すことが苦手なわたしでも円滑なコミュニケーションがとれるようになるという、何にも代えがたい充足感をもたらしてくれる。だから、人付き合い、という面でも食べることはわたしにとってとても欠くことのできない大切な要素の1つだった。
「食べること」の延長線上に存在する「人付き合い」
学生時代、部活終わりに部室でそれぞれおすすめの菓子を持ち寄って、恋の話に花咲かせながら交換し合って食べる、なんて青春染みたこともしたし、休日の日は美味しいと有名な食事を目当てに、友人たちとはるばる都内へ出たりもした。
20歳を超えてすぐ、お酒が飲めるようになった暁には、今思えば過剰摂取と言えるほどのアルコールと味の濃いおつまみの類をたくさん飲み食いした。友人たち、または同僚と食事を囲むその様は、今思い出しても楽しい思い出でしかない。あの時間は、とても大切で愛おしい記憶となっている。
とにもかくにも、わたしの人付き合いに、必ず「食べること」は同義のようにそこに存在したのだ。
食べることの変化と、人付き合いの変化
けれど20歳後半に差し掛かった今では、それまでのことがウソのように感じる。
わたしは、以前よりも食事を摂らなくなった。食べることは変わらず好きだが、空腹でないと食事を抜いたりするという、安直な考えに至ることもある。
そして気が付いた。
わたしは今、良く食べていた当時と比べて、人付き合いが格段に減ったのだ。それは、これからも本当に付き合ってゆきたい人たちを自分の中で整理したからなのだが、それに伴って食べることへの意識も減ってしまっているとは思わなかった。だって、本当に食べることは変わらず好きなのだ。
代わりに、たまに人と出掛け食事を摂る際には、今までよりも食べるものに「こだわり」が生まれていた。最近食べていないものや、滅多に食べられないもの。その場所でしか味わえないもの。その時々のお財布事情ももちろんある。けれど、そういうときは決まって自炊することが多いし、それで人をもてなすこともある。
そうやって、わたしは何でも食べていた当時に比べて、今は置かれている状況で、食事を選ぶこだわりが強く出来ていたのだった。
本当に会いたい人とだけ、大好きな食事を共にすればいい
人と会う機会が格段に減ったわたしだが、以前より増したのは、その時がくることのワクワクするような気持ちだった。
本当に会いたい、話したい人とだけ会うということ。そんな人と大好きな食事を食べられるということ。
それは当時にはなかったものだ。当時は、「何を話そう」「上手く立ち回れなかったらどうしよう…」なんていう不安が、コミュ障かつ人見知りのわたしにはやはり拭いきれずあった。
だから、それがない今の在り方はとても気楽だし、ただ楽しみでしかない。そんな気の置けない人と食べる食事は、言ってしまえば何でも美味しいと感じられると思う。
食べることは、わたしがここまで生きてくるのに欠かすことのできない要素だった。「食べること」があったから、生きていくうえで大切な人付き合いを上手くやり切れていたように思う。もし、そこに食べることが存在しなかったら、わたしの青春は泥沼だったろう。
わたしにとって生きることは、人の中で水の流れのように揺れ動く柔軟性が必要だった。それが性格上、あまり上手くはないわたしにそっと助け舟を出してくれる存在が、「食べること」だったのだと思う。
今は、心も体も健康的だと感じている。これからも、水の流れのように柔軟性を持って、「食べること」に助けられながら「生きること」をしていきたいと、そう思う。