緊急事態宣言が発令されて仕事が休みになり早1ヶ月が過ぎた。外に出るのは食料品や生活必需品の買い出しのときくらいで、ほとんどの時間は家の中で過ごしている。都会で一人暮らしをする私を気遣ってか家族や親類から時折届くメッセージには、「世間は自粛疲れだよね。」「ずっと家にいるのもしんどいでしょ。」といった言葉が並ぶが、私はこれらの言葉にあまりぴんときていない。確かにこの世間に、長引く外出自粛のフラストレーションが溜まっている人が数多くいることは知っている。しかし、私個人に向けられる言葉としては杞憂に過ぎない。なぜなら私は、家で一人生活することが苦ではないのだから。むしろ、この自粛期間が一人で過ごす時間の尊さを教えてくれたとさえ思っている。

かつては時間と労力を自分のために割くことができなかった

自粛期間が始まり、まず始めに取り掛かったことは部屋の片付けだ。引っ越して一年、「人が来るときに散らかっている部屋のモノをとりあえす突っ込む用」と化していたダンボールをやっとゴミに出した。毛布やこたつをしまい、洋服の衣替えと断捨離をした。それだけではない。毎日ではないものの滅多にやらなかった自炊をやったり、肌の調子を気にかけながらスキンケアをしたりしている。

これらはきっと、多くの人が当たり前にできていることだ。しかし、かつての私にはままならず、家に帰るとスイッチが切れたようにベッドになだれ込むことしかできなかった。このことは私が自分自身のためだけに割く労力に意義を見出せないことに由来する。掃除も料理もスキンケアも、その対象となる自分に手間や時間をかけるだけの価値があるとは思えず、全くと言っていいほどやる気が起きなかったのだ。そしてそんな脆い自分を外界から守るためには厚い鎧が必要となる。だから、街に出るときだけゴリゴリに着飾っては、帰宅すると力尽き化粧も落とさず眠りに落ちるのがお決まりのパターンとなっていた。

一人行動は得意。でも、好きで「ぼっち」だったわけじゃない

そんな生活能力の低い私だが、元々一人で過ごすこと自体は得意な方だ。一人っ子でマイペースな性格、人と話すのは好きだが、特定のメンバーで群れるのは苦手。高校時代からお弁当を一人で食べる、いわゆる「ぼっち」だった。周りからは「自分の芯を持っているよね。」と言われることもしばしば。もしかしたら、一人行動を好む人だと思われていたのかも知れない。

確かに一人でいることは気が楽だ。誰のペースに合わせる必要もない。でも同時に私にとって「ぼっち」であることは、長い間心にこびりついたコンプレックスだった。私は、好きでぼっちだったわけではない。みんなと歩調を合わせられないことがずっと恥ずかしかったし、寂しかった。大学生になると肥大した劣等感の行き場を求めてTwitterでネタに走り、私のことを友達だと思っている人たちを何度も傷つけた。自身の傷もさらに深まった。周りから「自分の芯」と呼ばれてきたものは、自分が傷つかないために纏った鎧。私は昔からずっと人の目ばかりを気にして生きていた。

他人の視線やSNSではなく、自分で自分を愛せるように

でも今となって、この「ぼっちでいることは恥ずかしい」という私の強迫観念は根本から揺るがされている。「三密」の中で拡散リスクが高まるウイルスの影響により、不要不急の理由で外出し人に会うことが敬遠されるようになったのだ。SNSでは「おうち時間」ブーム。それぞれが思い思いに自宅での過ごし方を発信している。一人で過ごすことがむしろ推奨される社会的雰囲気の中で、傷が癒えるかのように消えていくぼっちでいることへの劣等感。自分のために使う時間ほど尊いものはない、とさえ感じられるようになった。かつての私は一人ぼっちが嫌いだったのではない。一人ぼっちを人に笑われることを恐れていたのだ。他人の視線やSNSよりも、毎日変わる肌環境や花瓶の花を気にかける今の生活ならば、自分のことも少しずつ愛していけるような気がする。

自分と向き合えたから、人との再会も楽しみになる。

そんな折、一人で迎えた誕生日。友人から届くメッセージの温かさをいつも以上に感じ取ることができたのは、皮肉にもこの自粛期間のおかげだろう。一人の生活を満喫する今、人に会えないことが特段に寂しいわけじゃない。でも、だからこそ、次会える日のことにも思いを馳せられる。再会した日にはどこに行こうか、何を話そうか。そんなことを考えるのも今の楽しみの一つだ。孤独との付き合い方を知り、自分を愛せるようになった私なら、友人たちのことも以前より深くまっすぐに愛せる、そんな気がしている。