私は家事が嫌いだった。
実家は自営業で両親は大体家にいたが、家事はほとんど母が行ってくれていた。母は私には洗濯や買い物を頼むが、弟達には頼まない。「家事は女の仕事」と考えていたのかもしれない。
今思えば、私は家事労働そのものより「女が家事をするのが当たり前」という規範を嫌っていた。
産まれたときに振り分けられた「性別」なんていうくくりで、片方が負担を強いられ、しかもそれが「当たり前」だなんて、全くフェアじゃない。規範に順応したくなかった。
実家を出てルームシェアを始め、昔から薄々感じていたこの違和感がだんだんと鮮明になっていった。
男性のパートナーがいる男体ユーザーAさんとルームシェアを初めて少し経った頃のことである。
私はシャワーを浴びようと準備した。
「今日お風呂どうする?」
「今生理だから、Aさんがお湯に浸かりたかったらお湯いれてね」
この何気ない会話。生理は私にとって日常の一部で隠すことでもなかったから、シャワーを浴び終わる頃にはこの会話のことも忘れていた。
リビングでくつろいでいるとAさんが言った。
「自分は生理がない分好きにお湯を張ることができるし、その分多めに水道代を払おうと思うんだけど、どうかな?」
衝撃を受けた。「気にしなくてよいよ!」と動転して言った。
だって、「生理」について「男性」がこんなに自分事として考えてくれるなんて!予想もしていなかったのだ。
この会話を経て、「相手と対等にあるために、自分はどれくらい想像力を働かせられているだろうか」と考えるようになった。自分が楽をするために、無意識のうちに相手に負担を強いてはいないか。自由に楽に過ごしたい自分との勝負である。
対等な生活を共にするために、家事と相手への「想像力」を学んだ
「対等」について考える場面はたくさんあった。
まず、家事の分担である。家事が苦手な私がルームシェア一日目に教わったのは米の炊き方だった。恥ずかしながら、実家では炊飯器を使ったことがなかったのだ。
Aさんはトイレ掃除、風呂掃除、洗面台掃除など必要な家事をすべて私の目の前でやってみせ、分かりやすく解説してくれた。「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」という名言がその都度よぎった。現代の山本五十六ことAさん。
家事については、こんなこともあった。二人で洗濯物をほしている時のことである。ピンチハンガーに向かい、私のパンツを持ったAさんが言った。
「女性ものの下着は、どの部分を洗濯ばさみではさめば良いのかな?」
考えたこともなかった。いつも適当にはさんでいた。ていうかAさんのパンツ超適当にほしてた。申し訳ない。私のパンツをほすことがなければ、生涯女性もののパンツのゴムの伸びについて思いを巡らすことなどなかったかもしれないのに…!
Aさんの助けを受け、私は一か月程度であらかたの家事を覚えた。今では南高梅を取り寄せて梅シロップを作ったり、気づいたときにさっと床や排水溝をきれいにできるようになった。
家事スキルに困らなくなった今、改めて思うのだ。
「私がAさんだったら、Aさんのようにできただろうか」
相手を尊重して「対等」であるか問い続けるためにする「対話」
Aさんが私に教えてくれた最も大きなことは家事の方法ではない。対話の大切さだ。対等であり続けようとする尊さだ。
私たちのコミュニケーションはほとんどの場合、言葉を必要とする。私たちは恋愛関係にない、セックスもしない、身体的に男女の同い年の友人である。
友人同士という、「対等」を普段疑わない関係性だからこそ、本当に「対等」で存れているのか、たとえ完璧でなくても、問い続けることが大事なのだと思う。
相手を尊重するために一番大切なのは、相手の言葉に耳を傾け、自分の考えを伝え、どうすればお互いに心地よく過ごすことができるか話し合うことだった。
上下関係も下心もない関係性が、それを私に教えてくれた。