小さい頃、食べることが苦手だった。

朝の食パンはいつもモサモサして飲み込めなくて、1枚食べるのに20分はかかった。
幼稚園のバスは近所に来なかったので、送り迎えしてくれていた母親は「なんでそんなに時間がかかるの!」といつも困っていた。ほんとはサラサラ食べられるお茶漬けにして欲しかったのだけど、父がパン派だったから、言い出せなかった。

夜のお魚は、まずほぐすのに時間がかかるし、父の前できちんとしつけをしている姿を見せたい母親から、「猫背になってる!」「迷い箸しないの」「TVばっかり見ないよ」とひっきりなしに注意されるから、終始ドキドキして、余計にうまく喉を通らなかった。
だけど、家族団らんの場で緊張してるなんて言ったら両親を悲しませると思って、言い出せなかった。両親が私の味方であることも、愛されていることもよくわかっていたから、こんなのは大したことないと自分に言い聞かせて、居心地の悪さはご飯と一緒に飲み込んでいた。

居心地のよさと食べられる量が比例する生活

歳を重ねると、私を非難も評価もしない友人が増えていった。
自由な女子校だった中高は、どんなキテレツな発想があっても、ありえない事が起きても(たとえ汚くても、下品でも!)、笑って受け止められる懐の深さに溢れていて。皆違う価値観を持っていること、自分の普通は他人の普通ではないことを皆が当たり前に知っていて。私も臆せずに自分をさらけ出すことができた。

本当に居心地が良くて、食事嫌いだった私が、一日5食食べたりとか、修学旅行のわんこそば大会で優勝できるまでに変わった。(翌日はニキビだらけになったけど)。だけど、部活で先輩に怒られた翌日は母に作ってもらったお弁当を食べきれなかった。

大学生になると、同級生は皆似たような世界線に生きていて、高校とのギャップに辟易してしまったのを覚えている。
みんな、良いと思うものが似ていて、勉強ができる人が偉い。みんな、雑誌から出てきたみたいな服装。教室でだらしなく寝る人や、性に奔放な人なんかは、あっという間に軽蔑される。正しいレールの上にいない人は弾かれる。私はレールの上で過ごすようにしていたけれど、それでも息苦しかった。優秀と評価されるためには、こんなに多くの制限を自分に課して生きていかなきゃいけないのかと思うと、嫌だった。

ストレスは食事を受け入れられない自分に戻してしまう

友人は皆お金持ちで、当たり前に親からお金をたくさんもらい、学食以外のお洒落なご飯やさんに行っていた。私は大学入学直後に家業がつまづいたから、バイトを掛け持ち、昼食は家からおにぎりを持参した。
サークルやゼミでどれだけ長い時間を共有しても、友人と同じランチに出かけることはできなかった。この頃食事は、私と友人の格差をあばいてしまうものだった。
やがて全然お腹が空かなくなって、体からどんどん筋肉が落ち、ひょろひょろに痩せていった。

社会人になった今でも、大事なプレゼンの前日は、家から持ってきたおにぎりさえ残してしまう。
そんな時は、信頼できる同期や恋人と話す。彼らは、私をごはんに連れ出してくれ、私のモヤモヤを「大したことないよ」「仕事がうまくいかなくても、あなたの人生の幸せには関係ないよ」と暖かく背中を押してくれる。

…そうだな。ちょっとなめてかかるくらいがちょうど良いのかもしれないな。そう心が軽くなると、また、わんこそばで優勝したときの私に戻ることができる。そんな時の方が、仕事だって恋愛だって何事も上手くいく。

心が自由な時はご飯が美味しい。ご飯が美味しい生き方をしよう。

自分の心を「こうでなくてはならない」というレールの上にしばりつけない方が、生きてるって感じがするし、ご飯が美味しい。
ご飯が美味しい時の方が、私は私のことが好きだ。
私は誰に何を言われても、自分をしばらなくていいんだな。私は私って胸を張れば良いんだな。
明日も明後日も、美味しくご飯を食べられるような生き方をしよう。