食べることは、楽しい。美味しい。
食べているときは、簡単に幸せな気持ちになれる。
肉体的な快楽の中で、最も手軽に得られる。
「止めたい」と願っても、本能のように食べ物に支配されていった
私は、受験や家族関係の悪化、友人関係のことで無理することが多くて、過食に走っていたことがあった。
四六時中食べることばかり考えていて、しなければいけないことに手がつかなかった。
気を紛らわすためにアメやガムを口に含んで、なんとかしのごうとしていたけど、それじゃやっぱり物足りなくなって、買いに行ってしまう。
日本は“食べる”ことに関して、本当に素晴らしい環境だ。
24時間営業のコンビニ。小分けにされているお菓子。出費も増えた。
「止めたい」と願っても、本能のように考えが食べ物に支配されてしまう。
もちろん体重は増えたし、気分もずっと冴えなかった。
いろんな中毒者や依存症の方がいるけれど、何かを止めたいのに止められないって本当につらいだろう。
飽きないようにクリーム系や塩辛い系、さっぱり系と、何でも口にしていた。
お気に入りは、オレンジ味のグミとナッツ入りチョコレート。
食べた後の嫌悪感や「もう食べない」という決意の弱さに毎回心を砕かれ、ますます自分が嫌いになっていった。
そんなこんなで、体型や顔のコンプレックスも増大した。
お腹がいっぱいで、はち切れそうで「もう食べられない」とお腹が言っている中、それでも食べていたのは、口に食べ物を含んで味を噛みしめている、数秒間の快感のため。
食べ物による、気軽で安っぽい自慰行為とでも言おうか。
「食べること」は、簡単に快楽を得られる自慰行為と一緒だった
食の快楽は、一人で誰にも気を遣わず完了できるから楽だ。
キスやセックスは、相手がいないと得られない快感という時点で、そこに至るまでの過程への面倒くささがある。
思えば現実からの逃避の一つだったんだけど、その当時はそうやって逃げないと生きていられなかったから「大変だったね、頑張ったね」と過去に自分をそっとハグする。
人や自分の心と真正面から向き合って傷つくくらいなら、孤独感や空虚感を“食”という一人で完了できる簡単な快楽の方がいいと、ごまかしていた。
でも、そんな快楽は長続きしないし、健康的じゃない。
生きるために食べるはずが、食べるために生きるという本末転倒な結果になっていた。
ただ、そんな行動パターンも、現実の変化と共に変わっていった。
簡単な快楽に走るんじゃなくて、しっかり現実を見て、現実を生き始めた。
例えば、発する言葉を変え、環境を変え、少しずつでもいい変化をつけること。
そうすることで、しっとりと心地いい、深い快感を得ることができる。
それは、長続きして、とても質がいいタイプの快感。
それでも、私は今でも、チョコレートやグミを持ち歩くことが苦手だ。
一度封を開けてしまえば、一気に全て食べたい衝動に駆られ、きっと一人で食べきってしまうから。
そんな気持ちに近いうち、余裕勝ちしたいと思っている。
日々の生活が充実することで、過食が減って健康的な快楽を得た
食べることだけじゃなくて、本や音楽の世界に浸かる、お気に入りの服を着て出かける、自然に触れる、誰かとハグをする、しっかり寝る、ジョギングする、愛する人や心地いい人と時間を過ごす。
健康的な快楽は、生活のレベルを圧倒的に向上させてくれた。
さらに人と一緒にこのような快感や楽しさを共有すれば、社会との繋がりも感じられ、もっと多様な感情も知ることが出来る。
現実が充実し忙しい日々になると、自然と過食は減っていったし、興味も薄れていった。
身体を動かすことが、心身ともにいい影響を与えることに気づいた後は、軽い運動もするようになった。
朝起きて「何を食べようか」と自分に問いかけること。
洗濯やシャワーのタイミングを、自分で決めること。
賞味期限や保存を考えて、少しばかり手間をかけてご飯を作るということ。
合間に適当に食べるんじゃなくて、食べるにふさわしい場所で、しっかり時間を取って、感謝して味わうこと。
自分の命を存続させるための行動を自分で考え、実行することが、とても生活をイキイキとさせてくれている。
私は、このまま豊かな心を広げていくことを、ここに誓います。