社会人生活で最も板についたスキルは、おそらく「早食い」だろう。

就職した時からランチタイムは実質15分程度だ。最初のうちは気分転換もかねて職場から少し離れたところにあるカレー屋やレストランに行ってみたが、電話が頻繁にかかってきたり、移動時間がもったいなくなくて、結局コンビニに落ち着いた。飽きたと言いつつも、毎週出てくる新作のスイーツやお弁当があるとワクワクする自分がいる。

楽しみとして購入したランチ。しかし、いざ実食すると「噛めば噛むほど幸せ」というよりも「さっさとなくなれ」という感覚の方が強い。資料まみれのデスクでごはんを食べながらスマホでラインやメールをチェックし、パソコンは会議の資料が開きっぱなしで待機している。電話が来れば、サラダチキンだろうが高級うな重だろうが、水とともにさっと流し込む。食べ終わったらコーヒーを一気飲みしてばっちり眠気対策をしたら、同じ風景のデスクで作業に戻る。デバイスに囲まれてのランチは、食べるというよりも、サプリメントや薬を摂取する感覚に近い。

仕事しながらの食事は、無味無臭な満たされない行為

残業が長くなると、昼と同じ要領で大盛りの丼ものを流し込む。飲み会では私と同じような人ばかりが集まっているので、喋りながら、呑みながら、食べものはあっという間に各自のブラックホールに吸い込まれていく。

コンビニの新作の味も、お店の味も、作った人には申し訳ないけれど、正直あまり覚えていない。なんとなく美味しかった、自分には合わなかったで、シンプルに二分される。口に入れた一瞬の快楽と栄養があれば、あとは何でもいいのかもしれないとさえ感じることもある。

昔から食べることは楽しみでもあり、苦しみでもあった。美味しいものを見つけた時や、誰かとそれを共有できたときは妙に充実する。ある時は必要以上に執着して自分を見失ってしまう。しかし、仕事における食べるという行為は不思議なくらい無味無臭で、何をいくら食べても満腹になっても、満たされなかった。

ランチタイムを確保できるようになり、味わい噛みしめる食事

それがこのところ出勤日数が減って引きこもることが増え、社会人になって初めてランチタイムを社内規定の1時間確保できるようになった。せっかくなので、眺めの良いところにテーブルを買って食事場所を作ってみた。

自粛で通知音が鳴らないスマホは存在感ゼロ。パソコンは使う時間が減ってスリープモード。固定電話は我が家にない。

いつものようにコンビニで買うにしても、目の前にある食べものに意識が向くので、口に入れてゆっくり噛み締める。いつも食べている鯖ごはんが実は塩気が強かったり、苦手だと思っていたトマトが実は美味しいかもと思えたり。生活が自分の手元に戻ってくることは、自粛だからと下手に新しいことを始めるよりもよっぽど楽しかった。

おかげで、以前のようなフードファイターばりの早食いはかなり落ち着いてきたように思う。その証拠に出勤日のランチに入れた味噌汁が手を付けた時にはかなりぬるくなっていた。猫舌的にも朗報である。

がむしゃらに働くことで犠牲にしてきたものと、生きる目的

働くことは、貢献することの喜びと、自分に対する失望の繰り返しだった。そして、常に時間との闘いだった。変えられない過去に囚われ、未来のことは何も見えないままなのに、目の前のことをこなす一瞬が妙に長くて煩わしい。時間がない不安は、私を突き動かす原動力でもあったが、どんなトラブルよりもやっかいだった。

食への欲求を犠牲にして働くことで、替え難い何かを得ることができると信じてきたが、どうやらそうではないらしい。たぶんこのご時世に仕事があることは、ものすごい恵まれているかもしれないが、ネットの検索履歴は週末に作りたい料理のレシピと、退職願の書き方ばかりだ。それは、単純に時間を持て余しているからというよりも、自分が生きるために働いているからだ。目の前にある一口を味わうために、生きているからだ。