わたしがずっと手放せないもの。かけがえのないもの。それは女優、石田ゆり子さん著書の『天然日和』(幻冬舎)という1冊の文庫本である。

家族を持てたことは幸せだと思うけれど

20代なりたての頃。わたしは人生というものに期待をして絶望するということの繰り返しの中で、それでも期待することを諦め切れない、子ども染みた人間だった。

私は20代の前半で結婚し出産をしたので、社会経験や娯楽的経験が人に比べて乏しいと思う。その代わりに、何をするにも行動力があったし勢いもあった。あらゆるものが輝いていて、純粋で、全てが眩しかった。
妻になり、母親になり。そのことに後悔していると言えば、もちろんウソになる。けれど、有り余る生命力というのか、エネルギーというのか。…本当はもっと友人たちとハメを外したかったし、時間を気にせず出掛けたかった。煌びやかなネオンライトが光る街中を颯爽と歩きたかったし、気の向くまま旅行にだって行きたかったと、思わない日はなかった。家族がいなければ。そう思った日だって、正直に言うとある。

守るものができると、ある拠点を基に根を下ろさなくてはならない。良くも悪くも、その場所に定住しなくてはならないのだ。

この時、わたしの心は一度死んでしまった。家族を持てたことは幸せだと思う。けれど、実際わたしは10代後半までずっと独り身で生きていくと、家族なんて持たないと決めていたのだ。その思いと反する現状に、自分で決めたことなのにどうしてか上手く消化できないでいたのだった。

石田ゆり子さんのスランプを知って、同じ人間なのだと思った

そんな思いに駆られているとき、たまたま書店の売り場で組まれていたエッセイ特集の中に、それはあった。石田ゆり子さんのエッセイである。石田ゆり子さんは生きる姿勢とか、気持ちの在り方とか、品行がとても好ましい憧れの女性。その石田ゆり子さんが綴ったエッセイには、すごく興味があった。子供が寝静まったら読もうと手に取ったのだった。

その晩、そっと本を開くと、そこにはありふれた日常を過ごす石田ゆり子さんの姿があった。個人的な印象では、行動よりも心の動きが丁寧に、かつ優しく綴られていた。等身大で描かれる石田ゆり子さんの姿は、女優でも作家でもない、まっさらな状態そのもので、わたしは動揺した。正直、石田ゆり子さんも同じ人間なのだと、初めて思った。特にそれを感じたのは、石田ゆり子さん自身が経験した、スランプのこと。どんなに輝いている人でも、見えないところにドラマがある、なんてよく言ったものだと思う。そんな石田ゆり子さんに、わたしは共感したのだ。

「今」を見て見ぬフリをし続けるのはもったいない

多くのないものねだりをしていても、「今」を見て見ぬフリをし続けるのはもったいない。そう思った。子どもがいる暮らしは、今しか味わえない。けれど、今望む友人たちとの外出や夜の街、映画鑑賞や読書、美術館へ赴くことやショッピング、旅行。どれもその気になればいくらでもこれから生きている限り、好きなだけできるのだ。

それに、全部を我慢することはない。借りれる手は借りて、好きなことを満喫するのは決して悪いことじゃない。なんなら、子供の成長に合わせて、一緒に楽しんで行けばいいのだ。そういった柔軟性の大切さを、石田ゆり子さんは著書のなかで教えてくれた。そして驚くことに、わたしの心は息を吹き返したのだ。

この石田ゆり子さんの本、『天然日和』(幻冬舎)は、いつでも読めるように手元に置いておきたい1冊だ。わたしをわたしにしてくれて、ありのままでいいと言ってくれるそんなこの本は、若さを持ちつつも自由を失ったと、視野が狭くなって途方に暮れていたわたしの心に寄り添ってくれる、大切な存在である。