ガタンゴトンという音だけが聞こえる東京の電車の中。
静かに話していると、東京で生まれ育った友達が私に言った。
「ちょっと、あんまり方言使わないで」
少し慌てている友達の姿に私は思わず笑って、彼も笑みをこぼしたから和やかな雰囲気は続いたのだけれど、今もその言葉が私の戒めになっている。
自分も田舎者だと思われることが恥ずかしかったのか、田舎者を連れていると思われることが恥ずかしかったのか。
彼の気持ちはそのどちらかだと何となく察することができた。
もし、私も東京出身だったらそう思うのかな?もし、私がメジャーな方言を使っていたら話は変わっていたのかも?と考えたりもした。
このエッセイを読んでくれている人はどう思うのだろう。
標準語を口にして感じる違和感。方言がいちばん感情を乗せやすいから
私の地元には割と特徴的な方言がある。
「~だから」を「~やけん」って言ったり、「そうなの?」を「ほうなん?」って言ったりする。(キャー、地域が特定されちゃう)
伝わらないことはほとんどないけれど、たまにキョトンとされる。
私からしてみると21年間住んでいる地域の言葉だから親しみがあるし、正直細かいところに関しては何が方言なのかもわかっていない。
標準語を話す人は地元では周りにほとんどいなかったし、敬語で話すとき以外はもちろん方言を使って話す。だからこそ、方言が1番思ったことや考えたことを伝えやすいし、しっくりくる。逆に都会の子たちと話している中で思わず標準語を使うと、口にしたそばから違和感で心が埋め尽くされる。
クセになった小さな気遣い。でも方言ってアイデンティティでしょ
そんな愛着のある方言を彼にストップさせられたのは少し悲しかったけれど、騒々しい道を歩いている時には何も気にすることなくペラペラ喋ることができた。誰もすれ違う人の会話なんて聞いていないから、彼も気にしなかったのだろう。
方言を控えるように伝えてきた彼を責める気持ちは微塵もない。
むしろ、そう思う人がいることを知れたのは良い機会だった。
実際、あの日から東京で都心出身の人と一緒に電車やタクシーに乗るときには、方言はできる限り話さないようにしている。人によっては「何気にしてんの?」と思うかもしれないけれど、私なりのちょっとした気遣いだ。
かと言って、方言を話す私が悪いわけでもないと思う。日本には何十、何百という方言がある。それくらい多様性に富む日本語なのだから、方言は1つの文化的魅力で、アイデンティティだ。それに、「もしも日本全国みんなが標準語を話したら、おもしろくないな」とも考えてしまう。
これを書いている間にも「もしみんながエッセイを全部方言で書いてみたらおもしろいのでは?いや、何を言っているか理解できないこともあるかもしれない」なんて考えている。
ここが私の生まれ育った場所と言葉!胸張って方言で話そや!
それはさておき。
今は学生の私にも将来は東京で働きたい願望がある。
もし、東京に染まって、標準語を話すようになっていたとしても。
これだけは数年後の私に伝えたい。
「地元に帰った時くらいバリバリの方言で話そや。ここで生まれ育ったことには変わりないんやけん」と。