私のたからものは、わたし。

代わりのいない、愛すべきたった一人のわたし。

なんてことを言うと、とんだナルシストだと顔をしかめられ、他者を愛することの幸せを知らないのねと同情されるかもしれない。
だけど、自分自身を愛することのできる幸せを今は大切に、噛みしめていたいと私は思うのです。

人の感情に敏感で、嫌なところばかり目につくようになっていた

小さいころから、自分の意思がない人間でした。
人の感情の機微に敏感で、誰かの心が傷ついてちくちくするのが聞こえてくると苦しかったから、代わりに私が我慢した。我慢が当たり前になって、自分の「できない」「やりたくない」、そして「やりたい」の声までも見えなくしてしまっていたことにも気づかなかった。

しかし、高校に入って私の世界は一変した。
高校なんて学力が同程度の集まり。そこで注目を集め称えられたのは、言われたことのできる機嫌伺いの“いい子”ではなかった。リーダーシップや俯瞰力、創造力。もっと別の“+1”を持った人たちだった。私には何もないのだと気づいた瞬間だった。
同時に誰かにとってのいい子になることは、私の幸せとは何ら関係がないのだと気づかされた。

固定観念を取り払って「これが私だよね」って自分を楽しめるように
自分の幸せ、成し遂げたいこと、夢なんて、今まで周りに合わせてきた私が考えられるはずもなく。だけどこのままじゃ幸せになれないということには気づいてしまって。
さらに他人の感情に敏感に生きてきたせいか、人の嫌なところばかり目につくようになって“友達”にも疲れてしまった。私は一体、今まで何と仲良くなりたかったのだろう。

固定観念を取り払って「これが私だよね」って自分を楽しめるように

そんな中、大学で出来た数少ない友人の中で、人付き合いや自分の至らなさに悩む私に「人間らしい」と皮肉な笑顔で笑う人がいた。どれだけ卑屈になっても、その人は私のことを「面白い」と言って笑うのだった。
友達は素直に私を面白がっていたのだろうけど、その言葉のおかげで私はこれでいいのだと、どんな自分も認められるようになった。

たった1つの言葉に価値観を変えられた私は、自分と向き合えるようになった。私は自分が思っていたよりずっと、自分の心の声を持っていたことに気づいた。
自己肯定感は「自分を好きかどうか」ではなく「自分を許せているかどうか」だと私の好きなマジシャンは言っていた。その点でいえば私は、徐々にネガティブな私も内向的で卑屈な私も“これが私だよね”って、受け入れて許せるようになっていたのだ。

長々と人生を振り返ってしまったが、私は自分の世界が狭く、選択肢を知らなかっただけなのだと思う。私の世界は、学校という小さな世界で規律に則った生活をすること、正解を出すことが当たり前の世界、いい人であり、友達が多いことが偉い世界だった。

しかし、そうではなかったのだ。“自分の当たり前”の外にある、自分の生きやすい世界を知らなかっただけだった。

最近知ったのだが、私はHSP(High Sensitive Person:敏感すぎる人)という気質を持ち合わせていたが故に、人間関係や自分の生き方に悩んでいたのだった。おかげで色々なことに苦しんだかもしれないが、今は固定観念を取り払った私の世界で自分の感性を生かせる場所を探してみたり、小さな幸せを大切にしたり、HSP気質という良さを持つ自分を楽しんでいる。

自分らしく生きること、自分を愛せること、それは尊いこと

誰しも自分の嫌な部分が目につくことはあるのだろう。だけど自分を責めるのではなく、良いところだと捉えられるよう自分の世界の見方を変えることも考えてみてほしい。誰か1人、自分を認めていてくれる人がいるだけで、自分の世界が大きく変わることもあるから。
自分で自分の世界を広げ、たくさんの選択肢から自分の生き方を選んでいくことが、自分を愛する生き方への一歩なのだと感じているし、それに気づいた今、私はそんな誰かの世界を広げるお手伝いがしたいと思っている。

一言加えておくと、人の機嫌伺いも、いい子になろうとすることも悪いことではない。それが自分らしさであり、その“私“を自分が選んでいるならば、その人にとっての幸せであると、私はそう思う。

自分らしく生きること、自分を愛せること、それは尊いことだから。
みんなが自分を大切にできる世界だったらいいな。
私はそんな世界の実現の第一歩のために、声を大にして言いたい。

私は今の私が好きです。
私のたからものは、わたし。

この声が、誰かの背中を押せますように。