原爆が投下された52年後、私は広島の地に生まれた。
祖父母は第二次世界大戦を経験しており、幼い頃は彼らからよく話を聞いていた。祖父は満州へ出兵して、女学生だった祖母は空襲後の火の海の中を学校へ歩いたそう。
なぜ、戦争は起こったのか? 第二次世界大戦中は、日本でどんな戦いが起こったのか? なぜ、広島と長崎に原爆は落とされたのか? 当時の人々の生活は、どうだったのか? 小学生になると歴史の授業や平和学習などでより詳しく学んだ。
戦争について勉強してきたはず…でも、知らないことが多かった。
大学生になり初めて訪れた広島平和記念資料館は、想像以上の衝撃で館内で泣いてしまった。広島出身として、日本人として、平和のために活動すべきだと思い、様々なイベントや国際会議に参加した。大学2年生時には、平和式典にも参列させていただき、当時の私は原爆の悲惨さ・戦争の残酷さを国内だけでなく国外にも伝えていくことが私の使命であると信じて疑わなかった。
しかし、私の勉強不足そして、驕り高ぶっていたことに気づいたのは、東南アジアへの滞在がきっかけだった。
インドネシアのジャワ島中部にある都市スマラン。私は、そこでボランティアをしていた。ある日、現地のスタッフに「町の中心にある塔のことを知っているか」と聞かれたが、私は全く知らなかった。
彼らに話を聞くと、スマランは第二次世界大戦直後に日本軍とインドネシア兵たちの衝突があった場所だった。日本側は約200人が死亡し、インドネシア側は1,000人から2,000人戦死したといわれている。そして、その塔は『青年の塔』と呼ばれており、その事件で亡くなったインドネシア青年の遺骨が納められている。
私は当時この出来事について知らなかったことをとても恥ずかしく思った。私は日本で起こった事だけ、第二次世界大戦下の大きな出来事だけを見て、知った気になっていたことに気づいた。自分が思っていたより、 私は何も知らなかった。
その出来事以降、外国へ行く際は自分が知っていることが全てではないことを念頭において、その国・その国と日本の関係・歴史について本を読んだり、調べたりするようにしている。それでも、現地の人との交流の中で私の知らない日本がたくさん見つかる。後から調べるが、日本語での資料が少なく、英語の文献や記事に頼ったこともあった。
私がまだ「知らない事実」を見つけるためにできること
学校で学んだことだけが全てではない。時々、私がまだ知らない事実を見つけることもある。様々な人々との対話から得た情報を受け入れることで、起こったことをより深く多面的考えられることができると私は思う。そして、それが未来の平和への一歩なのだと私は信じている。
原爆死没者慰霊碑には、次の言葉が刻まれている。
「安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから」
この言葉は様々な解釈の仕方があり度々論争が繰り広げられているが、命・生活・文化・幸せ全てを一瞬で奪い去る戦争を日本が繰り返さない誓いの言葉だと私は解釈している。
私の使命は戦争の事実を伝え、平和について考えて行動すること…
月日が経つにつれて被爆・戦争体験を語る証言者の高齢化が進み、直接聞ける機会は少なくなり戦争の記憶が薄れていっているように感じる。
未来の子供達へ祖父母から聞いた話と東南アジアの人々から聞いた話を伝え、平和について一緒に考え行動すること、そして非核三原則を守り続けていくことが私の使命であると今は思う。
2020年8月6日。広島市への原爆投下から75年。
今日もこの広島の地で、平和への祈りを捧げている。