とある国に修学旅行で訪れた時のこと。
 ホームステイ先のホストマザーが、私を戦争記念館に連れて行った。そこに展示されていた写真と、英語で拾える情報をつなぎ合わせていくと、私は逃げ出したいような気持ちにかられた。
 日本に原爆が投下されたことを喜ぶ現地の人たちの写真。
 両手を上げて、満面の笑みを浮かべる幼い子や大人の写真。
 その下の説明には、「我が国を支配してきた日本の原爆投下、敗戦」と書かれていた。

「親日国」としか知らされていなかった、この国の歴史

 私は広島平和記念資料館にも訪れたことがある。そこで戦争の悲惨さ、原爆の恐ろしさを目の当たりにした。『はだしのゲン』だって読んだ。しかし、そんな原爆さえ救いの一手と思われてしまうようなことを、この国の人たちにしたのだ、日本は。

日本人を代表して、なんておこがましいが、とにかくこの国の全ての人に謝りたいような気持になった。同時に、ホストマザーがここに私を連れてきた意図を、量りかねていた。とても親切にしてくれたけれど、本当は憎んでいるのだろうか。ふとあたりを見回すと、アジア人は何人かいても、日本人は私以外誰もいなかった。そういえば、日本人向け観光雑誌にはこの記念館のことはおろか、日本とこの国の間にそんな歴史があったことすら書かれていなかった。ただ、「親日国」とだけ。
 ホストマザーだけじゃない。「親日国」と呼ばれるこの国の人たちが、私たち日本人に何を思っているのか。

途端に恐ろしくなった。恨まれていてもおかしくないことを、日本人はしていた。目を背けたくなる事実の連続だった。一歩奥に進むごとに、見たくないという思いと見なくてはならないという思いが交差する。ごめんなさい、ごめんなさいと心の中で呟きながら写真を見る。

いろいろな立場から見た戦争を知るということ

 そうしているうちに出口に出た。ホストマザーが私に「どうだった」と尋ねた。その「どうだった」にいろいろな意味が込められている気がして、少し考えこんで、正直に言った。「戦争のこんな側面を、私は知らなかった。なぜあなたたちがそれでもなお優しくしてくれるのか、そしてなぜあなたが今日ここに連れて来たのか、聞いてもいいですか」

ホストマザーは答えを決めていたように言った。「あなたに親切にするのは、あなたが犯した罪ではないから。この国の人々は、一部の日本人が犯したことへの責任を、全ての日本人に負わせて憎むことはしない。だけど、知っていてほしい。あなたたちの国がしたことを。これは事実で、変えようのないこと。知らないままで素通りにしてほしくないこと。だから今日ここに連れて来たの」。

その日一日の情報量を処理しきれず、「分かりました」とだけ答えた私を、ホストマザーは少し笑って食事に連れて行った。私に笑いかけてくれる店員や、「日本からようこそ!」と声をかけてくれる近くの席の人の優しさが、それまでよりももっと深いものに感じられた。
他の国の人々に私たちの祖先がしたこと。それを超えて親しくしてくれる国のこと。知らないままでいるのは簡単で、楽だ。だけど、目を背けてはならない。日本人の立場から見た戦争だけではなく、他の国から見た戦争を、私たちは知らなくてはならない。それが、戦後75年、たくさんの犠牲の上に成り立つ国際社会を生きる私たちの義務である。