小学5年生のとき、何となく気づいてしまったことがある。
あ、わたしって個性がないんだな、と。

いつもひょうきんでクラスの人気者だった友達の横で、ただ笑ってるだけの自分を惨めに思ったことがきっかけだった。
別に悪いことをして怒られたとか、自分のダメなところを晒し上げられたわけでもないのに、その時は面白いことのひとつも言えない自分がなんだか情けなくて恥ずかしくて、なぜか無性に寂しくなった。「わたしって個性がなくて地味なんだよね」って誰かに相談することもなかったのは、相手の反応が予想できたからだ。分かりきっているのにわざわざ第三者の自分への印象に傷つくことはしたくなかった。

わたしは、同学年の女の子たちがリップクリームを無色から色付きのものに変えだすその頃から「個性的な子」に憧れるようになって、少しだけ頑張って背伸びをした八方美人になった。

それは突然訪れた。空回りだらけだった八方美人との別れ 

それから15年たったけれど、相変わらず地味なわたしは頑張っている。人に覚えてもらいたくて、さらにはいい印象を持たれたくて。

興味のない話にもオーバーリアクション。
池で魚が跳ねただけでも手をたたいて感動。
自分の話は自嘲気味に3割盛る。
お給料日前なのに、同僚にお菓子を配る。何ならどんぶり勘定でご飯代だって多めに出しちゃう。

だけれど、こんな空回りだらけのことをしていると本当の”自分”がどんな風だったのか分からなくなることもしばしばあった。
これまでは”自分”が剥離していかないようにいつも何とか持ちこたえていたけれど、おやつのさけるチーズを裂きながら「おまえはわたしと似てるな」と独り言が漏れたときはさすがに焦って、その晩はダイエットを中断しておいしいものをたくさん食べてよく眠った。

そのうち心をすり減らしながら生きることにだんだん疲れてきて、好きな音楽も耳に入らなくなって、おいしいコーヒーがおいしく感じなくなった。自分への印象のことで疲れきり、いち社会人として人のために何かをすることができなくなったのが「!!八方美人限界!!」の合図だったのだ。

無理をした自分が離れていくのは万々歳だけど、本当の自分のほうが完全に手を放してしまったら大変だ。笑えない。そして多分、もう戻ってこない。

出会った全員を好きになるなんて不可能なのに、人に求め演じていた

だからわたしは、わたしのことを大切に愛していこうと決めた。
いつまでも己の印象に振り回されてじたばたしているのは見苦しいし、自分のことが嫌いで痛めつけるのは、本当のわたしを知っている両親や友達に失礼だと気付いたのだ。

だからと言って、幸が薄い。存在感がない。覚えにくい。誰だっけ?
今までわたしに平気でそう言った人の顔は、一人残らず全員忘れないけれど。個性がないがゆえに人から覚えられづらいことを気にしていたわたしは、周りが思っているよりもねちっこいのだ。

人は、出会った人のことを全員好きになっているわけではない。
全員の顔と名前すらきっちりとは憶えていないのだ。
そんな簡単なことに、わたしはずっと気づかずにいた。

出会った人全員に自分の存在を覚えていてもらいたくなって、必死になっていた。出会う人全員を覚えて、好きになるなんてそんなこと自分だってできていないくせに、人に求めていた。第一、全員にあなた面白いねって毎日ひっきりなしにお誘いメッセージが止まらなかったらどうする。
うっすい財布と貧弱な身体が悲鳴を上げるだろうが。

こんなわたしも大切な個性。自分を大切に愛して生きていく 

こうして、わたしはようやく人は案外他人に興味はないということに気づいた。何となく、普通に生活していたら気づいたのだから伊達に社会人やってないなと思う。

もう、飲み会で面白いことを言えなくても落ち込まない。そういうことは、自然とできる人に任せよう。
薄顔で地味でも、目立つファッションができなくても、わたしの価値がなくなったりしないんだから。

よく頑張ったよ、わたし。
もう頑張りすぎなくていいよ、わたし。

たぶん、こんなことでずっと15年も悩んで頑張り続けられたことこそがわたしの個性なんだろう。

さけるチーズはもうごめんだ。
わたしは自分を愛して、これからを生きていこうと思う。