私は新鮮な野菜が大好きだ。美味しい野菜を食べると元気が湧き上がってくる。
東京に住む私は地方の田舎にある祖母の家を訪ねる度に、道の駅に行き、地元の生き生きとした野菜をたくさん買い込む。都市部のピカピカした小さなスーパーで買う野菜は、どこか作り込まれた様な表情をしていて本音で心を通わすことが無く、自分らしくいられない居心地の悪さを感じてしまう。綺麗にパッケージされた野菜を食べると、どことなく味気無くて、あまりプライベートに入り込んでいかない都会のご近所付き合いの様。

逆にこの淡白さが心地良い時もある。それは人間関係に疲れてしまった時。或いは、充分に人の暖かな存在を感じられている時。だけれど、今回のコロナウイルスで人との会話や対面がめっぽう減ってから、改めて命の繋がりを感じられるものが私には必要だと気がついた。

コロナ禍で心と体から潤いが失われていく

コロナの自粛期間中で且つ就活前線真っ只中だった私は孤独と自分自身の戦いに葛藤する日々を送っていた。人と会わず、パソコンと睨めっこする毎日に段々と限界を感じ始めた。大学は4月から夏季の長期休暇まで全てオンライン授業になったため、私は春季休暇の3月から自粛中の5月まで電車にさえ乗っていなかった。ホテルでのアルバイトのシフトは大幅に減らされ、遂には出勤禁止命令が出た。それもそのはず、旅行客なんて来ない。

自粛期間中は祖母の家にはもちろん行けないし、ましてやあの新鮮な野菜も食べられない。ソーシャルディスタンスが騒がれ、やがてそれが定着すると私の心は完全に干からびていた。いつしか野菜の美味しさも忘れ、ストレスもあって安くて手軽に手に入るスナック菓子を食べるようになってしまった。「人は食べたものでつくられる」と言うが、やっぱり体は正直で肌は荒れ、何もやる気が起きなくなり、就活も手がつかなくなった。

道の駅のカラフルな野菜が止まっていた足を動かしてくれた

そんな中、自粛が明けると、気分転換を兼ねて祖母の様子を訪ねてみた。祖母は変わらず元気そうで、そんな様子が見れた時、私の荒れた心がどこか落ち着いた気がした。恒例の道の駅にも寄り、久しぶりに見る鮮やかな野菜たちはのびのびとしていて、元気に歌っているかの様な新鮮さに私の心は感動した。

たくさんの野菜を買い込み、自宅に戻ると、寂しそうだった冷蔵庫が生き生きと生命力を取り戻した。その日の夕食は道の駅で買った野菜達で彩られたカラフルで目にも鮮やかなサラダ。私はサラダを食べた瞬間、地球に生まれて良かったと心から思えた。野菜の甘さとみずみずしさが気の淀んだ体の中を浄化し、まるで雨上がりの空に日が差し込んだようにすっきりとした気持ちになった。

生きてるって素晴らしい!野菜を育ててくれた農家の方々、土、水、野菜を売ってくれた道の駅の方々、家族、周りの人全てに感謝の気持ちでいっぱいになった。美味しい野菜を食べることは私にとって、自分が生かされていることを改めて実感する大切な儀式だ。全てにありがとうと思えた時、また一から頑張れる。サラダを食べたその日から、止まっていた足が動き始めた。