小学校の修学旅行先は広島だった。
もちろん、目的は原爆ドームと広島平和記念資料館。近場の奈良と京都あるいは、広島という選択肢が私たちの代はあり、学年で投票が行われた結果、多数決で広島が決まった。
その時私は絶望して、家に帰って泣きながら母に報告したのを今でも覚えている。楽しい思い出を作りに行くための修学旅行なのに、戦争について学びに行くなんて嫌だと思ったことは覚えているが、なぜあそこまで抵抗があったのだろうとふと思い出し、母に聞いてみた。
戦争中に日本がした現実に衝撃を受け、背を向けたくなった…
母自身も私がこの話をするまですっかり忘れていたようだが、どうやらシンガポールでの出来事がきっかけだったこということを思い出して話してくれた。
私が小学3年から2年半の間、シンガポールのインターナショナルスクールに通っていた時、校外学習として歴史の授業の一環で訪問した戦争に関する博物館で嫌な思いをしてから戦争関連の記念館や公園などに行くのをことごとく拒否していたらしい。
校外学習で訪れた博物館で何を学んだのか、私は見事に記憶から抹消したようで正直覚えていないのだが、どうやら私はその校外学習で、初めて実は日本がシンガポールを第二次世界大戦中に占領していたことを現実としてとらえたようだ。そして「昭南島」という名前をつけ、多くの中華系住民を虐殺したことも。当時の私にとって、その博物館で知った現実は衝撃的で、目を背けたくなったのだろう。
日本で学ぶ戦争の歴史は、日本側から見た視点に過ぎない
日本で学ぶ戦争の歴史は、やっぱり日本から見た視点での歴史に過ぎない。平和学習といえば、やはり広島や長崎に重点が置かれ、加害者であった側面を勉強する時間は限りなく少ない。日本の教育機関で、日本が作った教科書を使用して、日本人である先生が教えるのだからそうなって当たり前だと思う。
でも、インターナショナルスクールという先生も含め生徒全員が異なる国籍の場だったからこそ、私は初めて加害者という立場を持っていた日本出身であることを強く自覚することとなったのだと思う。自分の国が決して褒められないようなことをしたことが、きっと恥ずかしかったのだろうし、周りからの目線を気にしてしまい居心地が悪かったのだろう。
当時の私にとってシンガポールでの出来事は、辛くて悲しい現実だったのかもしれないが、身近に戦争というものがない平和な環境にいる私にとっては、とても貴重な経験だったと今振り返って思う。
日本にある戦争被害者という側面だけではなく加害者でもあるという事実は、おそらく日本で日本人に常に囲まれていると意識することは少ない。そして、広島や長崎の学校に比べて私が通っていた神戸の学校は、戦争について学ぶ時間はきっと少なかったので、シンガポールでの出来事がなかったら「日本は原爆で大きな被害を受けていたんだ!」で終わっていたのかもしれない。
戦争は「被害者」にも「加害者」にもなることを知っておくべき
ちなみに進学した中学の修学旅行先も広島と長崎だった。やっぱり目的は、いずれも原爆関連史跡の訪問だったが、それはそれでよかったのかもしれない。やっぱり戦争があったという事実を戦争を知らない私たち世代が知っておくべきだと思うから。
そして、私は中学の卒業論文を他のトピックが選べたにも関わらず、あえて原爆について書いた。論文のタイトルに掲げた「アメリカは日本に原爆を落とすべきだったのか否か」という問いに対して、私は「YES」とも「NO」とも言えなかった。
それは、やっぱり日本が加害者でもあったという事実を忘れられなかったからだと思う。