私が戦争を認識したのは、小学1年生の夏。
平和式典に飾るための千羽鶴を学校のみんなで作ったからだ。戦争に関する詩や物語を授業の中で読み、平和を祈るために鶴を折るのだということはなんとなくだが理解していた。でも、戦争がどんなものだったのかは、その時はまだきちんと理解していなかった。
轟音に、人の叫び声。舞台やアニメでさえも、恐怖でいっぱいになった
小学1年生の秋。
学習発表会の予行練習で小学6年生の子たちが「はだしのゲン」の演劇を披露した。最前列で、横並びになって、お兄さんお姉さんたちが演じるのを見ていた。何を演じているかは最初はよくわかっていなかった。途中でドーンと大きな音が鳴って家が崩れ、人が下敷きになり、舞台上が真っ赤に染まった。
その瞬間、私は恐くて恐くて、その舞台を直視することができなかった。目を瞑っても耳を覆っても脳裏に焼き付いてどうすることもできなかった。涙が出てきて、その場に居られなくなってしまい、確か気付いた隣の子が先生を呼んでくれて(ここの記憶が曖昧だ)、気付いたら保健室で座っていた。気分も少し悪くなっていたのかもしれない。
でも1番は恐ろしいという感情。今でもその舞台の光景は鮮明に思い出せる。山と海に囲まれた田舎の小さな小学校だ。舞台セットも手作り感満載だった筈だし、照明も赤いフィルムを貼っただけのものだし、演技だって所詮学習発表会だ。でも、恐かった。ものすごく恐かった。
小学2年生の夏休み。
公民館に集められた。アニメを見ると聞いていて、みんな浮き足立っていた。流れたのは戦争についてのアニメだった。どんな内容だったか、記憶が曖昧だ。それはまたも途中で退出してしまったからだった。開始僅かで、あ!と去年の学習発表会の記憶が蘇り、見たくない、見ることができないと強く思ったことは鮮明に覚えている。先生が付き添ってくれて、ロビーで座って終わるのを待った。何か声をかけてくれていたと思うが覚えておらず、分厚い扉から漏れ出てくるドーンとかわあああとか、そういう音の方が今も鼓膜にこびりついている。恐くて仕方なかった。
広島で生まれ育った。ふるさとが、戦争に深く関わっていたと知った
私は広島で生まれ育った。原爆ドームからは遠く離れた田舎町に住んでいた。小学生から急に戦争というものを意識して、原爆が落とされたところで生まれ育ったのだからと、それ関連の授業も他と比べると多くあったのだと思う。知れば知るほど、そんな恐ろしいことが起こったのかと信じられない気持ちになった。原爆ドームは年に数回近くを通るくらいで、広島県民の私にとってもあまり親しみのない存在だったが、それでもその痛々しさは事情を知った後、より深く心に突き刺さった。
しかし、この時はまだ、原爆ドーム付近は大変だったんだな、と身近に感じられていなかったように思う。私の認識は間違っていた。戦争は身近、身近でないの話ではないし、私の住んでいる町は、思っていたよりも根強く戦争と関わっていた。
保育園の頃、遠足で船に乗って近くの小さな島に行ったことがある。広々とした芝生で遊び、お弁当を食べた。その写真は今でも実家のアルバムに仕舞ってある。
そんな思い出深い小さな島が「毒ガスの島」とも呼ばれていたことは、小学生になって、戦争について学習する際に初めて知った事実だった。私は、子どもながらに絶句したことを覚えている。毒ガスを作り、貯蔵倉庫に保管し、一時期地図から姿を消された島。それが私たちの町の一部である島だった。
小学校で再びその島に行ったのは、遠足ではなく、毒ガス資料館に当時のことを学びにいくためだった。ここでも私は逃げ出したい程の恐怖に怯えて、ハッキリとした記憶がほぼない。あるのはガスマスクの人たちの写った写真とたくさんの毒ガスが詰まった投下弾の写真。毒ガスは抜かれた状態の投下弾そのものもあったように思う。恐かった。ほんとうにとても恐かった。人を殺すための兵器を作っていたという事実が、それがこんなにも身近な場所で、そしてそれを知らずに今まで生きてきたということが。全て恐くて恐くて、私は目を瞑りながら早く終われと祈りながら館内を回った。
布団をすっぽり被って震えた夏の夜。飛行機の音に怯えて泣いた
戦争を知った日から、私は夏の夜に寝付けなくなることが増えた。もしかしたらまた原爆が落とされるのかも知れない。そう思うと、お腹だけタオルケットをかけて寝ていることがとんでもなく無防備なように思われて、せめてもと頭から爪先まですっぽりと被って寝ようとした。夜にヘリコプターか飛行機か、音が聞こえることがあった。その音を聞くたび、死ぬかも知れないと心から怯えて、泣いた夜もあった。学校に置いてあった「はだしのゲン」も一度も読めなかった。読んでいる同級生がおり、その漫画が恐いというのを伝えると面白がって中身をわざと見せてきた。その時に自分でも驚くほどパニックになって、涙が止まらずその場で耳と目を塞いで動けなくなったことを覚えている。
「戦争が恐い」。でも、この感情に慣れてはいけない
戦争について学ばなければと思っていた。しかし学べない。何がいつどこでどういった経緯で起こったことか、それはわかる。しかし、その戦争による被害、投下された直後の人々の様子、原爆による後遺症、亡くなった人、亡くなるまでに酷く苦しんだ人、その苦しみ方、その遺族の思い。その全てが私にとって、今経験しているかのようにリアルに全身に伝わってくるのだ。体からスゥっと血の気が引き、背筋が凍りつき、心臓だけがやたらとバクバク音を立てる。お前に何がわかるのか、経験もしてないの何が、と自分でも思う。それでもこの「恐い」という感情は、時を超えて、75年経った今、戦争に向けて抱いている。「当時は恐ろしかった」ではない。「今もまだ、戦争は本当に恐ろしい」私の感情は現在進行形だ。
私は戦争が恐い。
でも、今は夏の夜にお腹にタオルケット掛けただけで寝ている。夜の空に飛行機が見えるのを、飛んでるなあと眺めている。戦争関連の映像や資料はまだ見れないが、目に入った時に泣き出すことはない。
成長?それだけではない。
私は「戦争が恐い」という感情に慣れてしまっているのかも知れない。その事実に身震いがした。慣れてしまってはいけない。現在進行形であり続けなければならない。
今もまだ、戦争は恐い。そしてこれから先もずっと、戦争は恐いのだ。