私と戦争との「きっかけ」。「原爆は不可避」を受け入れられなかった
「日本への原爆投下は戦争を終わらせる手段として必要だった」
アメリカの大学で「原爆文学」の講義を履修していた時に学んだ、原爆投下に対するアメリカ政府の公式見解だった。日本で生まれ育った私にとっては、かなり衝撃的だった。
小さい頃から7月末から8月にかけて金曜ロードショーで放映される、戦争映画を見たり。地元が神戸のため、夏には「火垂るの墓」(※原爆に直接的に関係する物語ではないが)を見ていたせいか、どうしても、駄菓子屋で売っているアルミ缶に入ったドロップキャンディーをみると、焼け野原のシーンを連想したり。
戦争をしている時点でどの国が正しくて、どの国が悪いかなんて考えるのは無駄だと思う。ただ、広島と長崎に原爆を投下し、人々の日常を何十年も変えてしまった過去を「必要な選択肢」として受け入れることはできなかった。
多様な視点からの「原爆」。書き手として、読み手としての責任は
半年間の講義は原爆投下の是非について議論するような授業ではなかった。複数の原爆小説、詩歌、写真、映像を通して、「原爆文学」というジャンルについての考えるためだった。日本文学を専門とするアメリカ人の教授、アメリカだけでなく世界各国からの学生20人くらいで構成されたディスカッション形式の講義だった。
1回目の講義では、各人が「原爆文学」を履修しようと思ったきっかけを共有した。
韓国系アメリカ人の学生は、「彼の祖父が原爆当時、広島にいて、被爆者の親戚がいるということからもっと学びたかった」。
白人系アメリカ人の学生は、「アメリカの東海岸で受けてきた教育過程とは異なる視点で、戦争、そして、原爆を捉え直したかった」。
きっかけは千差万別だったが、多様なバックグラウンドをもつクラスメイトと一緒に、今までとは異なる視点から考えられることが楽しみだった。
原民喜の「夏の花」、井伏鱒二の「黒い雨」。。。他に何十冊もあるが、数々の文学作品の英語翻訳版、そして論文、映像をもとに考え、分析した。
どの作品を読んでも原爆の悲惨さ、人々の悲しみや苦しみは伝わってきた。それ以上に感じたことは、原爆を経験し、生き延びた書き手自身が被爆者たちの声を伝えることへの責任。そして同時に、彼らが書き残した作品を通して、被爆者たちの声を聞く読み手としての責任だった。
被爆者、原爆って? 物語から歴史を学ぶ、声を聞く原爆文学
受講前後でわしの中で変化したことは2つある。
「被爆者」という言葉と「原爆」という歴史の捉え方だった。講義を受けるまで私の中では「被爆者」という言葉との距離があり、 「原爆」は遠い過去の話のように感じていた。けれども、いろんな作品に触れていくうちに、ちょっとずつ変化していった。
小説だと数百ぺージ程度だし、詩だったらわずか5行にも満たないものもあった。作者の言葉や文章一つ一つから創り上げられた「空間」から感じるものは、言葉では表現しきることができない、「被爆者」としてのアイデンティティの葛藤のようなものだった。
突然起きた出来事が一瞬であたりまえにあった日常を奪い、社会からは「被爆者」として定義づけられ、生きていかないといけない。広島・長崎の多くの人たちに押し付けられた「心の傷」は、歴史(過去)として切り離すことはできず、今もこの先もずっとどこかで生き続け、動き続けているようなものに感じるようになった。
日常の中の一部としての「原爆」という歴史を捉え、作者が創り上げる言葉の世界から原爆投下と共に失われた数々の声を聞き、いろんな物語に耳を傾ける読み手としての責任を感じた。
「日本への原爆投下は戦争を終わらせる手段として必要だった」ということは、立場や歴史の捉え方・視点の問題であるため、受け手は受け入れるか拒否するかしか選択肢はない。けれども、「原爆文学」というジャンルは、受け手を一方的な視点から解放してくれる。言葉と言葉の「間」、文章と文章の「間」から想像し、書き手の世界観を自分なりに解釈、創造して体験することができる。
1つの歴史的過去ではなく、いろんな人の物語から創り上げられた歴史。そんな数々の物語を通して、アメリカの大学で原爆という歴史を学ぶ上での「原爆文学」の価値と可能性。そして、それらの作品から数々の声を聞く、という責任の大きさを初めて学んだ。
終戦から75年を迎えた今年の夏、長崎の平和祈念式典の中継を見た。
「新型コロナウイルス感染症、地球温暖化、核兵器の問題に共通するのは、地球に住む私たちみんなが“当事者”だということです」という長崎市長による長崎平和宣言の中の言葉が特に印象的だ。
各国のメディアが掲載している原爆投下に関するオンライン記事やテレビでやっている原爆に関する特集をみてみた。これだけ自主的に考えたのは初めてだった。
これからも自分の中で問いつづけ、聞くことを忘れないでいたい。