彼は言った。「据え膳食わぬは男の恥」と。
私は言った。「据え膳になった記憶はない」と。
2020年、夏。私の恋心は彼の「性欲」と言う名の胃袋のなか。

所謂「フラグ」は充分届く位置にあるとまで思っていた

彼との出会いは大学のサークル。容姿端麗・頭脳明晰、おまけに歳上と、私のストライクゾーンのド真ん中を駆け抜けるような男だった。ところが、彼のサークルへの出現率はSSR級。そのうえ、私の友人が彼を好きだと言う。仲を取り持って欲しいと、言う。その瞬間、私が彼を好きになる選択肢は見事に抹消された。彼はただの面白い先輩で、私はただの面白い後輩。たったそれだけの関係だったが、彼が卒業した後もご飯に連れて行ってもらったり、時には電話をしたりなど、「それだけの関係」だった割にはズルズルと仲良くしていただいた。

ところが、事態は急変した。
2020年、どこに行くにもウイルスの脅威に怯えていないといけない時代になった。人混みが怖い、居酒屋が怖い、距離を保つことこそ正義。その結果、私たちはウチで会うようになった。彼は仕事をしているので、平日は夜から、土日は適当なタイミングで、ウチで夜ご飯を食べてダラダラ喋るだけの時間ができるようになった。しばらく続けていると、そのうち帰り際に頭を優しく撫でられたりなど、スキンシップを見せるようにもなった。そんな状態が続けば、たとえ最初は何の恋愛感情もなかった相手だったとしても、「あれ?いいかも…」と意識し出すに決まっている。ベタな少女漫画なら、きっとそうなっている。私の恋路だって同じだ。

彼と会う時は決まって私の手料理をご馳走していたが、いつも美味しいと喜んでくれたし、控えめながら「まだ残ってる?」とおかわりを頼んでくれる。このとき、私は間違いなく彼の胃袋を掴んでいたと思う。男は胃袋から掴むべし。じゃあそれを掴んだあとはどうしたら?と、毎日ドキドキしていたし、所謂「フラグ」は充分届く位置にあるとまで思っていた。あとは回収するだけ。だから、マッチングアプリだって消した。今までに関係を持った男たちの連絡も全て絶った。君たちがいなくても私、潤っていられる!これからは彼一筋でいきます!おめでとう!幸せになってね、私。

と、浮かれていたら抱かれた。
彼の家に呼ばれて、まんまと抱かれた。

「据え膳になった記憶はない」

急遽家に帰れなくなった私を拾ってくれたのだが、きちんと別の寝床で眠る約束だった。それを信じていたし、お付き合いをするにあたって順番は間違えたくなかったので、絶対に身体だけは、という強い意志もあった。それなのに、結局都合よく言いくるめられて同じベッドで眠る羽目になった。迂闊だった。どんなに強い意志があろうとも、若い男女が同じ屋根の下、ましてや同じベッドの中、何も起こらないわけがなかった。そのことも、少女漫画で学んでいたはずなのに!

そして、彼が言ったのだ。「据え膳食わぬは男の恥」と。

「据え膳になった記憶はない」
「私、好き、だったのに」
ぽつり、私が精一杯紡いだ言葉は、彼の煙草の煙に揺られて宙ぶらりん。
彼は、「ごめん」と言っただけだった。

「ごめん」なんて言うなら、一生その恥かいてなさいよ

さて、この夜の出来事だが、「美味しいご飯を提供し続けていたら、いつの間にか私さえも美味しいご飯になってました!」なんて、友達の間では笑い話にしている。ここで正直な気持ちを吐き出したい。

「据え膳食わぬは男の恥」だと?
結局「ごめん」なんて言うなら、一生その恥かいてなさいよ。
私が暖め続けてきた想いも、壊れないようにと守り続けてきた関係も、あの夜すべて手放す羽目になってしまった。良い先輩でいてほしかったし、素敵な恋人になってほしかった。どちらも叶わなかった。

翌朝、舌先に僅かに残っていたのは、彼の煙草の味。
もう、会えないじゃない。