私達の生活に身近だった水が、今危機を迎えているらしい
私たちの生活と切っても切れない存在、それは水。
水といえば何を思い浮かべるだろうか。青色、水色、透明。色だろうか。それとも蛇口をひねって出る水、湯船に溜めている水など、生活で使う水だろうか。静かな自然の中でちょろちょろと流れている川の水、滝のようにダイナミックな水、あるいは噴水や鹿威しのような芸術の水などを浮かべるかもしれない。水という一つの言葉からイメージは広がる。しかも、それらの水はすべて私たちにとって身近である。
水は循環しているのだと小学校の理科の授業で習う。中学校や高校に進むと、蒸発や昇華の仕組みを学ぶようになる。図で書いても「あ、どこがどこだっけ」となかなか覚えられないやつである。水は流れ、固まり、蒸気になる。
川遊びや雪遊びが私は大好きだ。でも、「なんだかムシムシする…」というあの湿気だけは勘弁してほしい。
そんな私たちの身のまわりで循環している水が危機を迎えているらしい。水不足が深刻になってきているようだ。
日常生活では感じられない水不足。循環しているはずなのに何故なのか
ふと思った。水は循環しているはずなのに、なぜ不足するのだろうか
正直なところ、私は自分の生活で水不足を感じたことはない。毎日1Lと少しの水を飲み、歌いながらお風呂に入り、気が向いたら料理もする。料理に関してはどちらかというと食べるほうが専門だが、そんなこんなで私は水においてまだ困ったことはないのだ。
水は誰にとっても生きていくうえで欠かせない。世界を見渡せば、毎日水を得るために水汲みに行かなければいけない国が多いことに気づく。水をめぐって争いが起きたこともあると歴史から学んだ。
今の水不足が深刻化すれば、生活は不便になり、健康に悪い影響を与え、紛争が起きてしまうかもしれない。しかし、どうしても遠い世界のことだと感じでしまうのは、私だけだろうか。
地球温暖化の影響で氷が解けて海水面が上昇しているということをよく耳にする。水が不足しているなら、増える一方の海水をろ過して飲めるようにすればいいと思ってしまう。サバイバルで使うような装置を使って…。水を必要としている人たちのところにポンプで送ってあげれば解決しそうなのに、と。
しかし、実際に行われていないということは、何か難しいことがあるのだろう。
他人事のように感じる環境問題も少しの想像力と関心で意識が変わる
科学技術が発達することによって生活は確かに豊かになった。
おかげで生活のために必要だった時間が他のことに使えるようになった。それは本当に革新的なものだと感じている。
だけど、発展途上といわれている国で暮らす人々はその恩恵を十分に受けていない。
時々きれいな水を飲めるようになったと笑顔で水を汲んでいる幸せそうな写真をみて感動することもあるが、きっと現実は私が思う以上に深刻なはずだ。水不足が世界的に深刻化すればするほど、真っ先に被害を受けるのは私たちではなく彼らだろう。
水はこれまでもこれからも地球を循環するだろうが、もし何らかの変化によって循環の仕方が変わるとどうなるだろうか。恐竜が絶滅した時のように氷河期になったり、熱くなりすぎて全て蒸気になったりしてしまうこともありうるのではないか。そうすれば人間は生き延びることができなくなる。でも地球にとっては、その方が良いのかもしれない。
きれいごとを抜きにすれば、どこか他人事のように環境問題を考えてしまうことの方が多いのではないだろうか。私もそうだった。
でも、イマジネーションを働かせながら学べば学ぶほど、水と意識的に関われば関わるほど、水が好きになってきている自分に気づいた。まだまだ分からないことがたくさんある。
でも、身近なところから地球を愛し、大切にしなければいけないことは確かだと思う。今、私たちがすべきことはなにか。地球の恩恵を受けて、生きていることを忘れてはならない。
水を愛し、地球を愛したい。そして、水や地球から愛される人間になりたい。