言葉が好きな癖に、何度も人を傷つけてしまった過去がある。言葉を発したすぐ後に後悔するけれど、それだってもう遅い。
次第に私は自分も、自分の言葉も信じられなくなって、書くことにも自信がなくなっていった。
だからこそ、言葉とは何なのか、どれくらいのパワーを持っているのか、私はそれを扱えるのか……。そういうことに執着してしまう。
言葉には厚みがある。使う人によって、違った感触、肉感が出てくる。
もちろん、ただ立体感を持っているだけではなく、それが鈍器のように人を打つこともある。言葉はただ立体的に存在しているだけではなく、動きを持った存在だと思う。
価値観が多様な現代では、何を褒めるかでコミュニケーションが変わる
そんな「言葉」にまつわる内容で最近気になっているのは、人の褒め方だ。
価値観の移り変わりが早い現代では、少し前までは褒め言葉として認識されていたようなフレーズも、人を傷つけていた可能性がある言葉として認識されるようになってきた。
例えば、体型を褒めることはもう時代遅れだ。例えば、「痩せていて(スリムで)綺麗だね!」と一見ポジティブに聞こえる内容でも、もしかしたらその相手は何かしらの理由があって、体重が増えなくて悩んでいるかもしれない。
そもそも、体型は体質や骨格によってもかなり違ってくるものである上に、なかなか変えるのが難しい。ルッキズムとも根深い関係があり、ともすれば単にその人のジャッジメント(感想、コメント)になりがちな言葉を迂闊に発することには注意が必要だ。
それよりも、その人のセンス(感性)が活きている、洋服選びや趣味、行動を褒めた方が、何倍も相手に素直に届きやすい言葉でコミュニケーションが取れる。
相手を尊重できているか考えられていない褒め方は時に大きな傷を残す
セクハラも、古い価値観しか反映できていない言葉が引き起こす、コミュニケーション問題だ。男性が「良い」と捉えている価値観(よく言われるのは、「俺たちから」性的に評価されると女性は嬉しい、だから体型やメイクに感想や口出しをする、という言動)が、本当に女性から喜ばれることなのか? あなたの言葉は、あなた(とその周辺)だけの価値観の押し付けになっていないか?
このように例を挙げていくと、想像以上に多くの壁にぶつかる。まず、どれだけ徹底して相手のバックグラウンドを尊重できているか、どれだけ相手を知ろうとしているか、で自然と飛び出す言葉は変わってくるだろう。相手を褒めたい、という気持ちは誰しもが持ちうるポジティブな気持ちで、純粋に相手への賞賛になってほしいけれど、現実はそうも上手くいかない。
常に「相手の考え方だったら、どのように褒められれば嬉しいと素直に思ってもらえるのかな」と考える癖をつけないと、ふとした時に私だけの、そして、ややもすれば時代遅れの考えで、相手を判断したことになってしまう。そしてそれは、決して大きくはないかもしれないけれど、随分鋭い傷を、気づかないうちに相手に残す。
相手への憧れや良い点を丁寧な言葉で表せるよう、表現に注視したい
私の友人の一人に、それがとても上手な人がいる。彼女は、私が「かわいい」と言われるのが嫌いだと分かっていて、必ず「素敵だね」や、「綺麗だね」と伝えてくれる。これだけで、人を思いやる言葉遣いの方法を知っている、思慮深い人柄だとすぐに分かる。
人を貶すことよりも、人のどこを見てどのように「褒める」のかという視点にも、その人の価値観が如実に出るようになってきた。相手の良いところへの憧れを丁寧な言葉で出せるように、常に、「どのような表現が」「なぜ議論されているのか」を注視していきたい。