大学生になって、初めて“飲み会”を経験したときから、私はサラダを取り分ける文化が嫌いだった。飲み会に行く前から、そういった文化があることは聞いていたため、何となくイメージはできていたものの、それらがごく自然に、当たり前のように女性に、中でも若い女性の役割になっていることに疑問を感じずにはいられなかった。

初めて大皿料理を「取り分けた」とき、私の心は重く沈んでいた

初めての飲み会は、大学で入ったサークルの新入生歓迎会だった。私を含む新入生は迎え入れられる側だったため、そのときは気を利かせて女性の先輩がサラダをはじめ、パスタやメインの肉料理も取り分けてくれた。テーブルには6人ほどが座っていたが、その先輩は大皿にのったサラダを6人分、すべての小皿に量も具材も均等に取り分け、後でもっと食べたい人のために少し残しておくという、恐らく最上級クオリティの取り分けを行った。

それを見た私は、自分が食べるものをどなたか他の方によそってもらったことに対して、申し訳なさでいっぱいになった。その申し訳なさが残って、取り分けてもらったサラダを食べる私の箸は進まなかった。

次の飲み会で、私は初めてサラダの取り分けをすることになった。同じテーブルで一番年下なのは私だった。同学年の男の子もいたけれど、サラダをのせた大皿が運ばれてきたあとの周囲の視線は、それとなく私に注がれていた。もちろん故意ではないだろうが、なぜだかトングの取っ手も私の方に向いていた。

「ああ、私が取り分けなきゃいけないんだ……」心は重く沈んだ。でも、何をどうすればいいのか勝手がまったくわからない。前に女性の先輩がしていたやり方を必死に思い出しながら恐る恐るやってみる。緊張のせいもあり、取り分けたサラダは量と具材のバランスが悪いように見えた。もしかしたら、嫌いなものがある人がいるかもしれない。もたもたしていると思われているだろうか。そんなことを考えながら、最後に自分の分を他の人のより少なめによそった。テーブルの人たちは、私の行動を何も特別なこととは思っていないようで「ありがとー」と乾いた声が返ってきた。

大皿を見ると、大量にサラダが残ってしまった。最後に足りなくならないようにと、慎重によそいすぎたのだ。初めによそった一人当たりの量が少なく、案の定早く小皿が空になる人が出てきた。

飲み会で自分が食べるものは「自分」でよそえばいいのに…。

初めての取り分けがうまくいかなかったことで、落ち込んだ私を見かねた女性の先輩が「○○くん、お皿空いてるね。もう少し食べる?」と気を利かせて聞いていた。きっと、それも私がすべきだったのだ。それでも、何もできなかった。その後のことは、あまりよく覚えていない。きっと先輩がその場を何とかしてくれたのだろう。

帰宅して、母に取り分けのことを話したら「気にしすぎよ。案外他の人は細かいことは気にしないから」と慰められたが、それでも私の気持ちはすっきりしなかった。

そもそも、取り分けの文化がよくわからなかった。自分が食べるものなのだから、一人一人自分の分をよそえばいいのではないか。量もコントロールできる。一人一人よそうことによって時間はかかるかもしれないが、取り分けをいつも無言の圧力に耐えかねてやっている人もいる事実は変わらない。そして、取り分けができる=気が利くいい人、取り分けができない/しない=気が利かない人といったレッテルは、人間の本質ではなく、正直くだらない物差しだと思う。

「取り分け文化」を押し付けるのではなく、選択肢を与えてほしい

そんな思いを抱えながら、就職してから参加した飲み会で、私は一度だけ大皿のサラダが運ばれ、誰も取り分けをしようとしなかったときに「一人ずつ自分で取りませんか?」と言ったことがある。周りは一瞬ぽかんとしていたものの「そうだね」との声がぽつりぽつりと聞こえはじめ、結局一人一人自分の分を取ることになった。周りからは“サラダの取り分けすらできない子”と嫌われたかもしれない。

でも、私の一言をきっかけに、別のテーブルでも「自分で取ろうか」という声が上がっていた。だから、私は自分の発言を後悔していない。

私は、取り分けの文化を全否定するわけではない。何も気にせず、むしろそれを好きでする人もいるだろう。ただ、内心やりたくないと思っている人もいる。そんな人がもし一言私のような発言をしたら、取り分けの文化を押し付けるのではなく「自分たちで取るのもいいかも」と考えてみてほしい。少しずつでも、誰かが勇気をだして言った言葉を受け入れる世の中になっていってほしい。