私にとって食べることは命がけだ。なぜなら、生まれつき食物アレルギーという持病があるから。食物アレルギーとは、特定の食べ物を食べた時に身体が何らかの理由でそれを「異物」と判断してしまい、かゆみ、蕁麻疹、咳、嘔吐、下痢、呼吸困難などを引き起こす疾患だ。私の場合、卵、エビ、そば、などなど。合計10種類以上の食物アレルギーを生まれつきもっている。なので。みんなが一般的に語る「美味しい」という食べ物は食べたことがない。よく「もったいない」だの「食べれないのは可哀想」とか言われるけど、味わったこともないなら、その味に対する執着心も皆無なので、別に不憫に思っていただく必要は本当にない。
アレルギーは可哀想じゃない、ただ根気よく付き合っていく病
この食物アレルギー、何と言っても困るのが食事中だ。日頃からアレルゲンの含まれる食べ物を口にいれないように、気をつけなければならない。アレルギーじゃない食べ物とアレルギーの食べ物を同じお鍋で調理していただけでも身体がそれに反応し、痒くなったり息苦しくなる。皮膚に飛んでも痒くなったりすることもある。
意識がもうろうとする重症な場合(これを「アナフィラキシー」と言います)は救急車ですぐに運んで処置をとらないといけない。このやっかいな食物アレルギーの対策は、「原因となる食物を摂取しないこと」が基本であって、万一症状が出現した場合には速やかに適切な対処を行うのがベストの方法だと言われている。つまり、根気よく付き合っていくしかない病気なのだ。
最近はメニュー表にアレルギー表示をしている飲食店も増えて、自分が持っているアレルギーを使っていないメニューを注文でき、トラブルは比較的回避しやすくなった。実際に飲食店には食品表示義務はないので、アレルギーメニュー表がないお店もたくさんある。その場合、「私は卵アレルギーがあるんですが。このメニューって卵が使われていますか?」など、口頭でお店の人に聞いたりしないといけない。その答えをもらうまで下手にメニューを注文できないからただ返事を待つしかない。この前、お店も忙しかったからか確認してもらうまで、小一時間くらい待った。とてもお腹が空いていたし、「外食でこんな大変だっけ」と、もうなんだか泣きそうになった。確認後、大丈夫だということが分かっていつもの2倍くらいのごはんを平らげたけど。
食べ物には敬意をこめて、いただきます
食物アレルギーの苦労がある一方、私は食べ物に対してものすごく感謝をするようになった。日々の生活では忘れがちだけど、食べるということは色んなものの命をいただているから。草を虫が食べる。その虫を鳥が食べる。その鳥を人間が食べる。このように食物連鎖で生物の命をいただくことで、私達は今日も生きている。もし、この世界にアレルギーの食べ物しかなかったら、私は決して生きていくことはできなかっただろう。考えただけで恐ろしくなってしまう。人間から「食」の楽しみを奪うなんて泥棒よりもひどい。食べるために働いているんだし。だから、どんなに小さかろうと美味しくなかろうと、食べ物には敬意をこめて接したいと思う。それは命を与えてくれる生物に対する「義理」みたいなものなんだと思います。
食べ物を選ぶ行為はつまり、生きることを選ぶということ
みんな食べ物を口にいれる時、どのような気持ちで食べるだろうか。美味しい。嬉しい。楽しい。などの高揚感。なんの味だろうこれ。変な感触。などの不思議感覚。私は、「この成分にアレルギー入ってないかな。食べると自分の身体がどうなるかわからないな」と、生命の危機を少しでも感じながら食べる時が多い。食べることは他の生物の命を感じとること。他人と喜びを分かち合うこと。そして、その選択肢は自分自身が生きることを選んでいることだと思う。これらは持病が教えてくれことだ。
余談だが、家族は海鮮丼もプリンも年越し蕎麦も食べれない私を、「まるで外国人といるみたい」だと言う。そんなこと言わないで食べ物で四苦八苦しながら暮らす娘にちょっとぐらい慈悲の心を持ってくれてもいいんじゃないかと思っている。