「AちゃんもBちゃんも彼氏がいていいな、わたしも彼氏欲しいーー」
とか言っていたのは数年前のわたし。

長かった受験戦争が終わり、暖かな春の訪れと共に、Instagramには多くの“リア充”たちが出没していた。

“年齢=彼氏いない歴”のわたしは「どうせすぐ別れるくせにインスタに彼氏の写真あげなくて良くない?」「何この写真、めっちゃ匂わせじゃんウケる」とか、非リア充の友達とリア充たちのことを嘲っていた。

それで得られたものなんて、何もなかったけれど。

「彼氏がいない自分」は、ピースの足りないジグソーパズルのよう…

“リア充”たちにルサンチマン的な感情を抱きながらも、わたしは「彼氏欲しい」が口癖になっていた。当時は息を吐くように言っていた言葉だけれど、今なら分かる。

わたしが本当に欲しかったものは、彼氏なんかじゃなかったって。
わたしが欲しかったのは多分、“彼氏のいる自分”だったんだ。

何故かというと、それは簡単で、社会には“恋愛をしている=幸せ”、“恋愛をしていない=不幸”という呪いの基準が根強くあるからだと思う。これは結婚している、していないにも共通することだと思うけれど、パートナーがいるかどうかで、幸不幸を決めつける傾向がある人は多い。

実際、わたしも少し前までそう思っていた。“彼氏がいない自分”は、欠陥品でピースの足りないジグソーパズルみたいな存在なんじゃないかと。だからこそ、早く彼氏を作って“彼氏のいる自分”を手に入れたかった。早く自分を完成させたかった。人間として、早く一人前になりたかった。

「恋愛をしている=幸せ」の公式は、必ずしも正解ではないんだ

でも、大人になる過程で“恋愛をしている=幸せ”という絶対的にも思えた公式は、必ずしも正しくないということに気づいた。

彼氏のいる友達の相談に何度か乗ったことがある。幸せというより、むしろ彼女はしんどそうで、彼氏との関係を早く終わらせたがっていた。

逆もまた然りで、“恋愛をしていない=不幸”ではないということにも気づいた。わたしのことを大好きでいてくれる友達や家族がいて、そして何より、わたしは一人で過ごす時間にも十分に幸せを感じることができるからだ。

一人部屋で音楽を聴いたり、本を読んだり、誰かのためじゃなくて自分のためだけに香水を選んだりする時間が、わたしの生活に彩りをもたらしている。このことに気がついたわたしに、もう怖いものなどない。

大声で言う!わたしの幸せも不幸も、決めるのはいつだって「自分」

「彼氏は作らないの? 勿体ない」「大丈夫、いつか良い人に出会えるよ」とか言う無邪気な言葉にいちいち傷つくこともないのだ。

たとえそれが負け犬の遠吠えだといわれようとも、呪いから解放されたわたしは声を大にして言いたい。

今、わたしは彼氏がいないけれど、とっても幸せなので勝手に憐れんだり見下したりしないでくれるかな?

わたしの幸せはわたしが決めるし、不幸もわたしが決めるから。