朝起きて、かたくなに開こうとしない瞼をこすりながら、顔を洗うために洗面台に向かう。冷たい水で何度か顔をすすぎ、やっと目が醒める。ふかふかのタオルを顔に当てながら、私は鏡の中の自分の顔をよくよく観察する。
よし、今日も増えてない。

――いつごろからだろう。

毎朝、私は自分の顔を見て、ほくろが増えていないかをチェックする。小学生のころにはすでに毎朝自分の顔を確認していたから、すでに人生の半分以上、自分の顔を毎朝凝視していることになる。

毎朝チェックせずにはいられない。私の気分を最悪にする憎きほくろ

私のコンプレックスは、ほくろだ。顔だけでなく、全身にちらばるほくろは大小さまざま、色も濃く黒いものから薄く茶色いものまで。自分でいうのもおかしな話だが、ほくろの百貨店というものがあるなら、それは私の身体のことを指すのかと思うほどだ。

頭にくるのは、そんな憎きほくろは、ある日突然なんの前触れもなく、私の身体や顔に現れるということだ。朝いつものように鏡を覗き込んだ私の顔に、“昨日まではなかった”ほくろができていると、それはそれはもう最悪の気分になってしまう。

「気づかないように、チェックしなければいいのに」と両親は言うが、むしろ“気づかないうちにほくろが増えていること”に気づいてしまった時こそがショックだ。いつから? 何日前から私の顔にはほくろが増えていた? そんなことを考えるより、毎朝自分のほくろを数え、安心するほうがいくぶんマシな気がするのだ。

大人になって、コンプレックスについては指摘されなくなっていたのに

幼いころは、よくほくろをからかわれた。見たもの・思ったことをストレートに口に出す子どもの感性は残酷だ。

小学校のプールの授業なんて、最悪の時間に決まっている。腕や背中など、体中に広がる私のほくろを見て、男の子たちは「ほくろ星人」とからかい、女の子たちは「何か病気なの?」と変な同情を寄せた。そのたびに反論するのも疲れてしまい、小学校高学年になったある日「うん、病気で」と嘘をついた。「あの子のほくろは病気だから、口に出して指摘してはいけない」と学年中にうわさが回るまで、そう時間は必要なかった。ほくろのことを指摘されなくなった安心感と、嘘をついてしまった罪悪感で板挟みにされたまま、私は小学校を卒業した。

大人に近くなれば近くなるほど、容姿について言及されることはなくなっていく。みんな、人の容姿について口に出すのはタブーだということを、大人になる過程で学習していくからだ。私自身もほくろを指摘されることはめっきりなくなった。女友達からも、男友達からも、仕事のお付き合いがある人からも。

とある日、仕事の失敗も相まって私はずいぶんと酔っていた。お酒にはだいぶ強いほうなのに、見境なくワインを煽ったのが失敗だった。終電などとっくになくなったターミナル駅で声をかけられた、見知らぬ男性とホテルに入った。ずいぶんと酔っていた。

目の前の見知らぬ男性に一枚一枚服を脱がされていても、どうでもいいとしか思えなかった。ただぼーっと天井を見上げ、早く寝たいと思いながら時が過ぎるのを待つ。残り数枚の薄い布を残した時点で、見知らぬ男性が数字をぶつぶつと数えるのが耳に入った。

「……なにしてるんですか?」
「ほくろ、多いなって思って。数えてる」

その瞬間、あれほど酔っていた私の頭が一気に覚めた。ベッドから飛び起き、私は部屋の隅で泣いた。いきなり泣きじゃくる私を見て驚いた男性は、舌打ちをし、そのあと私に触れることなく、眠りに落ちた。私はお金を置いて、そっとホテルを出た。

私のほくろは、大人になった今も「コンプレックス」なんだ

大人になっても、私のほくろはこんなにもコンプレックスなのだ。久しぶりに指摘されたコンプレックスは、薄い剃刀のように私を傷つけていった。その傷の痛みすら忘れていたほどに、大人は他人行儀だ。見ず知らずの人に数えられるほど、私の全身にはほくろがあって、友人知人はそれを見て見ぬふりをしていてくれたのだなと、その時気づく。

これからも毎日、私は鏡の中の自分を見つめ、顔のほくろを数えるのだ。

かがみよかがみ、魔法のかがみ。
私のコンプレックスは、今日も増えていませんか。