22年間生きてきて、初めてアイドルにハマった。私が今までいた界隈とは、文化が全く違う戸惑いもあったが、それ以上に私にとって三次元の人間は、いくらアイドル(=偶像)であろうとも、まっすぐに推すことができないのではないかという悲しみの方が大きい。
できる限り「美醜」に囚われたくないけど、あの人のことが好き…
私がアイドルを推す苦しさの最大の理由は、容姿へのコンプレックスだ。私は散々、自分の容姿に悩んできた過去がある。今でも自分にとって、ベストな“美”や“健康体”の解釈を見つけるのに四苦八苦している。
そして、言わずもがな私が好きなアイドルは美しい。ファンとしてどうしても考えてしまうのが「もしも握手会などで相手に会ったら、相手は私のことをどう思うだろう」ということだ。
可もなく不可もなく、ただのファンの一人として認識されるのはわかっている。それでも「相手が私のことを器量が悪いと感じたら?少しでもそう思われたら…」と思うと身体がこわばる。この考えが、私の思考を蝕む。
軽度の身体醜形障害に近いものを時折発症することがあるので、できる限り美醜に囚われたくないと考えてきた。だけど、否が応でも考えてしまう。
私はあの人のことが好き、実際に会って話してみたい。……できるのか? 相応しいのか?
「じゃあ、綺麗になれば? 今は化粧でも整形でも、トレーニングでもなんでも方法があるんだから、挑戦してみればいいじゃん」と人は言う。その通りだ。理解できる。……本当に?
私は自分をどのように「アップデート」すればいいのだろう?
ここで私を我に返らせるのは、脱コルセットの考えだ。今まで女性の“当たり前”だとされてきた装飾、例えば指の毛にいたるまでの脱毛や化粧、スカート、ヒールなど、それらで得をしてきたのは誰だったのか? それらは、本当の意味で女性が生きるために必要だったのか? という問題提起をした脱コルに、私は共感している。
実際、化粧をやめた方が肌が綺麗になったし、ヒールを履くのをやめてスニーカーにしたら、膝下の歪みが治ってきた。なんだ、着飾らない方が楽じゃないか、むしろ体にいいじゃないかと気づけたのだ。
そして、ここに来て立ちはだかる問題。好きなあの人が「細い女の子が好きだ」と言った。だから、そのために痩せる?
それって、私にとって正しいことなんだろうか。
だけど、綺麗な子だと思ってもらいたい。
じゃあ、私をどんなバージョンの私に、アップデートさせればよいのだろう。
自分らしい「美の基準」を持ちながら、三次元の人を推すためには?
自分の身体に対してのぶり返されるコンプレックスと、私がフェミニストになってから気づいた“外見の基準”への違和感が、ごたまぜになってアイドルを見ている。彼は輝いているのに、翻って自分を見ている気分になる。
外側にある“他人の視線”に自分の視線を重ね、内省化する行為。男性の視点を振り払ったと思ったのに、長らく“男性視点の美しさ”に囚われていると、ふとした時に苦しさが蘇る。
そもそも、私が“綺麗”、“美しい”と思う女性像だって、バイアスがかかっているはずなのだ。まずは、自分がどのようなバイアスを持っていて、どうやったらそこから解き放たれるのかを考える方が先なのではないか。
この悩みがあるから、もしかして三次元の人を推すのは向いていないのかも……と薄々感じてきている。けれど、せっかくなので、立ち上ってきた美醜の課題も諸々抱えて、とりあえず彼の活動を追って応援していくのもいいかもしれない。ここで出会える感情は、自分らしいロールモデルを作り出し、目指していく過程にきっと繋がる。