人と関わるのが好きだ。人と話すことも、人と出掛けることも、人と共創することも。ひとりよりも、できることが増える喜びを知ることができたからなのかもしれない。

人と関わることが苦手だった幼少時代

小学生の頃、人と関わることがあまり得意ではなかった。何を話せばいいのか、どんな会話をすればいいのか、子供ながらに子供社会を生き抜くことに疲弊し、その時から、将来は人と関わらない仕事がしたいと思っていた。

その頃から「小説家」になりたかった。人となるべく関わらない仕事をしたいと思って、それを挙げていた。(結局担当者さんとか色々関わるから子供ながらの浅はかな考えだなぁとおもう)
書くだけの世界、わたしだけの世界にのめり込んでいたかったのだ。今は小説家になっても人と関わらないでいけるなんて思ってもいないけれど、過去のわたしにも人の怖さを感じて生きている部分は少なからずあったようだ。

思春期は突然訪れる。小学生の頃も、中学生の頃も、人の目を気にして、外から客観的に見た自分がどうであるかばかり気にして、友人と呼んでいる人たちとの当たり障りのないぽっかり空いた空洞化した会話が、頭の上で執り行われて、掴めないようにすり抜けていく。

傷つきたくないから、傷つけないようにすり抜けていけるような会話をリズミカルに交わしていく。

社会人になって初めて得た、人と対話する体験

大学生になっても、フルーツサンドのフルーツがない生クリームだけの甘ったるい会話は健在で、甘いだけの若い人たちの言葉遊びは、退屈だった。

本当はもっと人間らしく、純文学のような人間の葛藤を議論できるような場所を求めていたのかもしれない。

学生による学生のための場所には自分の居場所は見当たらなくて、社会人になって初めて〈コミュニケーション〉をした感覚を持ち合わせ始めた。

「聞いたらちゃんと応えてくれる大人」はわたしの周りにおらず、

「聞いても、応えない人」
「応えても、理論的ではない人」ばかり。

社会人になって初めて「質問したらちゃんと応えてくれる」大人に出会ったおかげで、
人と会話することから対話することを体験した。

人と関わることには怖さもある。でも分かり合える喜びは大きい。

私たち人間には喜怒哀楽の他にも嫉妬や渇望、同情や共感など、実は27種類もの感情があると言われている。当たり前に備わってるもの感情を、人と共有したり、投げ合ったりしている。

その感情を投げ合うためにはちゃんと伝えていく必要があって、それをみんな出来るだけ避けて通るように生きている。

なぜなら、怖いからだ。

「嫌われたらどうしよう」が常に頭に渦巻く私たちは、人と対話できない。

そしてその努力すらもしない。

自分を守ることだけを考えた保守派。

それでも伝えていくことが、対相手との関係性の持続化が図られる。

そして逆にいえば、それしか方法はないのだ。それは、人間のコミュニケーション方法は言葉を交わすことだからだ。

テキストを打つことも、電話することも、コミュニケーションかもしれない。

けれど、直接会って話すことには敵わない。

人は怖い。けれどわたしはその先を知ってしまった。

分かり合えたとき、伝えても立板に水だった時、それを理解した上で側にいる選択をしてくれた時。

ひとりよりも、何倍も悲しくて、愛おしい気持ちが生まれてしまったのだ。

触れてしまった心の琴線は、鳴り響き、もっと音を出したいと願う。
裏切られて傷つけられても、手を伸ばしていく作りたいを思う人との関係性には一体どんな魅惑の香りがするのだろう。

人が怖いのに、人と関わっていく覚悟をしたわたしの道はこれから開拓していく。
怖さを小脇に抱えて、これからも生きていく。