半径1mの直視に耐えられる、自分らしい姿であること。『関東ちょうどいいブス選手権』準優勝を自負する私が掲げる、これが“ちょうどいいブスの定義”だ。

改めて考えてほしい。「ブス」は、誰にとってちょうどいいのか?

ちょうどいいブスという言葉は、確かに男性の意識が主体となっているようにも感じる。女性を男性の都合で、“ちょうどいい”と断定する発言は、確実に差別的な側面をもっているし、実際これを売りにした女性芸人が登場するドラマを巡って、SNSで炎上していたそうで、出来事としては理解できる。

しかし、ここで改めて考えたい。“ブスは誰にとってちょうどいいのか?”と。そして、誰でもない、“私自身がちょうどいい”と判断する場合ならどうだろう。

例えば、デートなんかで過度に空気を読んで、「はじめてのデート 服」とかで検索した結果をそのまま着ていった場合。哀しいかな、場に適切な服が必ずしも自分に似合う服とは限らない。だから、私は空間になじめているのかと不安になる。心ここにあらず、常に上空2mくらいに揺蕩っているような状態で気が気でない。街中の鏡とすれ違うたび、自分の姿を確認してしまうから、きっと会話もままならない。

こんなことになるなら、どうせならばと割り切って自分の着たい服をベストな状態で着ていったほうがテンションも上がるし、何より目の前の人へ誠実に接することができるってもんではないか。

皆「自分の欠けた部分」を差し引いて、天秤の対岸に自分を置いている

自分が楽しめないのは損だと思うとき、私の中の“ちょうどいいブス”が顔をのぞかせる。私はちょうどいいブスなのだから、どうせなら着たい服を着ようじゃないかと。

もちろん、髪の毛を巻こうとしてうなじを焼く孤軍奮闘も、流行りのメイクを試して垢抜けた顔になるのも、すべて尊い。それらを取り入れて努力することは本当に素晴らしい。しかし、それに憑りつかれてまで、皆と同じである理由はどこにもないと私は思う。

日本人の平均パーソナルスペースである約1m、その半径内にいる人を不快にしないことを念頭に置きつつ、自分のよさが相手に伝わるよう、コンセプトと戦略を練ってまとめてみたらいいじゃないと、私の中のちょうどいいブスが囁く。すると、明日のデートが俄然楽しみになってくる。自分らしい時間を、お相手と快適に過ごすことができる。

私の中のちょうどいいブスは、いい意味で自己中で、都合よく計算高い、私の味方だ。

身勝手な他人の“ちょうどいいブス”へ怒る前に、男性が“ちょうどいい”を求める裏側に回ってみる。結局、その人自身も自分に自信がない箇所があるということがわかる。鼻が曲がっていたり、精神疾患歴があったり、生え際が極めて後退していたり、ペニスが小さかったり。皆こっそり自分の欠けた部分を差し引いて、天秤の対岸に自分を置いている。

そして私も、“ちょうどいい自分”でありながら、自分を受け入れてくれる“ちょうどいい他人”との出会いを待ち望んでいることに変わりはない。なんだか、“ちょうどいい”。だからこそ心地よく、懐をみせてくれる人も沢山いるのだ。

ブスは不完全をポジティブに捉え、明日を乗り越えるユーモアをくれる

昨今、活発に叫ばれているルッキズムに対する啓蒙に触れて、私はまず「いきなり自分を手放しに愛することなんて無理だわ」と思ってしまった。奥ゆかしき謙遜文化が、いまだ根深い日本で生まれ育った、完全奥二重の私である。

これまで様々なエピソードに裏付けられてきた自己認識とコンプレックスを、すべて素晴らしいものだと即喜んでしまえるほど、賛美に溢れた人生ではなかった。「ブス」と呼ばれながら酒を呷ることで、楽になれる夜もあった。

だから私はこれからも、都合よく“自分にとってちょうどいいブス”であろうと思う。まずは、ブスであることを自覚するところから、ではない。自己の不完全をポジティブに捉えて明日を乗り越えるユーモアを、ブスがくれるのだ。

その先にある完全なる自己愛へ向かって、今日もちょうどいいブスは奔る。