「背が高いのに、スポーツしなかったの?もったいない。」
今まで生きてきて、幾度となく言われた言葉だ。そう、私は背が高い。そして、スポーツには昔からあまり興味を示さなかったため、運動部に入ることもなく、スポーツを趣味とすることなく今まで生きてきた。背が高いことと、スポーツ経験がないことに何の相関関係も因果関係もないと思うのだが、「背が高い→バレーやバスケが得意に違いない→運動神経抜群だ!」と思われることが非常に多い。

そこで私が「いえ、スポーツ経験はなく、得意ではないんです。」と答えると、「もったいない!」と言われてしまう。「なんでスポーツしなかったの?」と責めるように言われることもあるし、急速に私から興味をなくしたり、がっかりされたりすることもある。

「あるべき姿」って何?その構文、筋が通ってなくない?

この「~なのに、もったいない構文」を聞くと、なんだか私の人生の選択が間違っているような気になった。「あるべき姿」に当てはまらないようで不安にもなった。
目の前の人が私に失望する瞬間。そのたびに私は、「せっかくの高身長なのに、活かせなくてごめんなさい」といたたまれない気持ちになった。ここではたと気づく。

私も、「~なのに、もったいない」構文、使ってる。
「~なのに、もったいない」構文は、いたるところで耳にする。どのような場面で使われるかというと、ステレオタイプに当てはまらないとき、ギャップを感じたときだ。それは、容姿の印象と並べて語られることが多い。例えば、「かわいいのに、服の趣味が悪くてもったいない」「女の子らしいのに、字が汚くてもったいない」「美人なのに、料理ができなくてもったいない」など。ほとんど論理が飛躍したものだ。

気にしなければいいと言ってしまえばそれまでだ。しかし、スルースキルに優れた人間ばかりではない。「せっかくの高身長なのに、活かせなくてごめんなさい」だなんて、一体誰に謝っているのか。居心地悪く感じると同時に、なぜ一方的にがっかりされなければならないのかと悔しい気持ちも沸いた。それでも自分自身に「もったいない」の呪いをかけることはやめられなかった。

大切な友人のくれた「そのままでいいよ」を大切にしたい

ある時友人になにげなく「運動したほうがいいのかな」と言った。それは健康のためでもあったが「背が高いのに運動が苦手」という見た目と中身のギャップを埋めたいという意味を含んでいた。その方が辛い思いをしなくて済む。その時友人は「無理にするもんじゃないよ。そのままでいいよ」とあっさり言った。健康のためなら他にも方法があるじゃない、と。

それを聞いて、ふと立ち止まった。私の大切な人はそのままの良さを認めてくれるのに、他人のものさしに合わせてしまっては友人に対しても失礼ではないのか。私が誰かの理想でないことを責める人よりも、私が大切にしている人の言葉に耳を傾ける方が、自分の人生を幸せに生きることができるのではないのか。

他人の理想を気にするのはもう終わり。決めたら呪いが解けた

そもそも、第一印象と人間の性質には必ずしも関連性があるわけではない。相手が勝手にがっかりしているのだから、こちらは何も気にする必要がない。謝る必要など微塵もないのだ。勝手にジャッジするほうが失礼だ。

誰かにとっての理想を目指すのはやめよう。いきなり自分のマインドを変えることは難しくても、せめて自分に対しては「~なのに、もったいない」構文を使うのはやめにしたい。ありのままの自分を認めるのは難しいけれど、他人の期待を背負うのはもう終わり。他人の勝手な願望を自分が叶える必要はないのだ。