私はうつ、不眠症、アルコール依存症を患っている人である。このように聞くと、とても不遇でいつも落ち込んでいて、社会になじめない人だと連想されるかもしれない。しかし、その通りだから私は何も言えない。私は幸せでない。嬉しいこともないし怒りもない。それにもかかわらず私は生きている。いや、少しずつ死んでいる。物理的にのみ生きているわけだ。

どんなにつらくても「みんなこうして生きている」と思っていた

うつ病を患っている人に会ったことがありますか。うつ病についてどう思いますか。常に死を渇望する、笑うこともなく家にじっと閉じこもっている引きこもりを想像してはいないでしょうか。

しばしばうつ病は心の風邪みたいなものだと言われる。しかし、風邪などに例えることができない。心の病気である。治療することが非常に難しい難病。

私はうつ病を患っていることが大学に来てからわかった。以前はみんなこう生きているんじゃないかなと思っていた。そう、「落ち込んでいてもきつくてもしんどくても、みんなそうやって生きているんだ」と。

でも現実は違った。幸せな家庭で育てられてきた人と、私は異なっていた。考え方や世界を見る視点から違っていた。彼らからは幸福の香りがした。劣等感がせり上がってきた。私は決して選択することができない、愛があふれる家庭で育てられて性格に余裕があり、また優しい彼らから私は萎縮してきた。

死にたい日々に気付いた「生きたい」という一抹の希望

同じ家庭で育ったにもかかわらず、なぜ自分の姉は幸せなのだろうか。なぜ私は幸せになることができないのだろうか。ああ、そうなんだ。それは、私のせいだね。自分の性格のせいだね。私は幸せになりたくてもなれない性格を持ち生まれたんだ。じゃ私はどうすればいいのかな。生まれたくて生まれたわけでもない、最初から選択肢なんてなかった。自分は何を期待すべきか。こんな考えで自殺しようともした。何度も。

ある日、すべてのものを整理して最後に好きな海を見に行ったことがあった。こんな日に限って天気は晴れで、空もきれいだ。じっと水平線を眺めた。遠くまた遠く。二、三時間ほど座ってじっと何も考えず、海を見ていたらふと涙が出た。なぜ泣いているの。自分に聞いた。海が美しいから?空がきれいだから?違う。私は気づいたのだ。私は死にたいと思いつつ生きていたいとも思っているのだ。本当に死にたいのに、ただ一抹の希望があったんだ。自分の中に隠れていたのだろう。だから、死ぬのがもったいなくて、数々の希望からの裏切りにもかかわらず、もう一度信じてみたくて。涙がこぼれた。

あきらめた。もう一度その希望を信じてみることにした。いつか、「あの日、死ななくてよかった」と思える日が訪れると信じて。

生きると決めてからも、つらい出来事に何度も打ちのめされた

その後も私のメンタルがやられる日は数え切れないほど多かった。その中でも一番やられた事件は、私のことが好きで、私に精神病があっても好きだと言ってくれた人との話だ。私がうつでも好きだと言ってくれた人に「精神的に問題があるからもういやだよ」とふられた。彼は私に何度も好きだといった。

なぜなら私と寝たかったからだ。でも私は信じた。彼は私が本当に好きで、私の精神病も抱えていくほど、彼は私が好きなんだ。信じたかった。「もういやだ」という言葉で頭をハンマーで打たれたようになって、ひたすら道に立っていた。混迷した。いっそ倒れたかった。家に帰る途中でわあわあ泣いて家でも泣いてそして狂ったように酒を胃に浴びせた。そして倒れた。目を覚ますと、普段はよくフィルムが切れたように記憶を失うのに、今回は数分前の出来事のように記憶は鮮明であった。

死のうとした。ところが、倒れたとき頭をどこにぶつけたのか、頭があまりにも痛かった。二日酔いのせいではなく、物理的に痛かった。頭がとても痛くて手足が震えて到底起きることができなかった。天井をじっと見つめつつ死にたいだけ考えていた。彼の言葉にショックを受け、対人恐怖症やパニック障害ができた。一週間も家の外には一歩も踏み出せないまま、毎日お酒を飲んで眠った。それ以来、私は目を覚ますと―朝になると―お酒が飲みたくてたまらない。お酒の瓶が目の前にあると我慢できず飲んでしまう。アルコール中毒で、人間ドックで内視鏡検査を受けるときに麻酔を打たれたけど全く効かなかった。もうこれ以上打ったら危ないとのことで、そのまま進行した。

美しい自殺大橋で考える。なぜ不幸なのか。なぜ息をしているのか。

韓国で自殺大橋と呼ばれるマチャン大橋に行ったことがある。あまりにも美しい大橋であるが、多くの人々がハンガン(ソウルにある大きい川)に身を投げた。こんなに美しい橋の前で、私はなぜ不幸だろうか。幸せになれないだろうか。ずっと考えていた。

それにもかかわらず、私は息をしている。この息の重さがどの程度かはわからない。息ではなく、ため息をついているのかもしれない。