私の宝物はなんだろう。
小さい頃に集めた好きなシールが入った飴のカンカン? 母から貰った真っ赤なガーネットのイヤリング? 個性的な字で綴られた恋人からの手紙? 辛くてどうしようもない時に掛けてもらった温かい言葉?
どれもとても大切だ。「宝物」といっても差し支えないと思う。だけど、どれも同じくらい大切だ。でも、とびきり、ひときわ、他の追随を許さないほど、揺るぎない絶対的な宝物とは少し違うような気がしてくる。
「自分には心の底から宝物だと感じるものがないのではないか」とふいに不安に襲われた。だって宝物と訊かれてすぐに思いつかなかったから。
そもそも宝物って、絶対にたった一つでなければいけないのだろうか。
ハンバーグを作るためのミンチ肉をこねながら、湯船につかりながら、歯磨きをしながら、布団にもぐりながら、ぐるぐるぐるぐる一日中考えてもさっぱり何も浮かんでこない。
そんな日を二日三日繰り返すと「今生きていること」自体が、私にとって一番の宝物ではないかという考えがじんわりと浮かび上がってきた。
そして一度その考えが立ち表れると、他に宝物だと胸を張っていえるものはない気がしてきた。
きっと「宝物」を死後の世界へ持って行く事は出来ないだろう…
「私も死んだら、おじいちゃんのようにお星さまになれる?」
都会ではほとんど見ることが出来ないような、まばゆい天の川を見上げながら祖母に尋ねた。
「そうね、人は死んだらいつかお星さまになるからね」
そう言って、祖母はしわしわの乾燥した手で私の左手を取った。
いつか死んでしまった時にお星さまになるのなら、きっと今着ているお気に入りのTシャツもキティちゃんのお財布も、友達も、家族もなんにも持てずに星になるのだろうと、幼いながらに漠然と理解し、胸の辺りがほんの少し重苦しくなったのを憶えている。
死語の世界については、今を生きている人間には誰にも分からない。
憶測でしかないが、きっと宝物をその世界へ持って行く事は出来ないだろう。
思い出や記憶といった精神的なものも死んだ後に携えていけるかは不確実だ。
生きることは「宝物」と呼ぶに相応しいものが増えていく過程でもある
だから私は、生きていることそのものを不可侵で、最も尊い宝物だと信じている。
愛おしいものたちを自分の大切フォルダの中へ入れ、それらと一緒にただ生きていけるだけで良い。いや、生きていくのを望んでいる。
生きていると、時に生きるのをやめてしまおうかと思うほど、深く傷を負うことがある。
それでも、生きていくことは「宝物」と呼ぶに相応しいものが増えていく過程でもあるのだ。
体育が大の苦手で大嫌いだった私が、マット運動のお手本の生徒になったこと。
誕生石がついた美しい本の栞。
ヨルダンから、クリスマスに届いた絵葉書。
電車の中で突然、鼻血を出した時に助けてくれた見知らぬ人たち。
孤独な夜に読んだ江國香織さんの本。
招集をかけると文句をたれながらも集まってくれる友達。
言葉に詰まり黙りこくった時、ただ隣にじっと座って私の言葉を待ってくれた人。
深夜の暴風雨に心細くなっている私を慰めてくれたあなたからの電話。
「生きていくこと」は、大切なものを積み重ねていけること
私の大切フォルダの中には、ここには書ききれないほどたくさんの大切が入っている。
宝物は決してたった一つでないといけない訳ではない。生きていく上で数多く出会っていき、生きていく中で身の回りに溢れる物事の価値に気付いていくことだ。
私が頭を悩ませたのは「宝物」と呼べるものがないのではなく、ありすぎたから。
だから、私にとって一番の宝物を仮に一つだけ決めるとするならば、この大切フォルダを更新していける“私自身の生”が何よりもの宝物だ。
生きていくことは、宝物という言葉で表すような大切なものを積み重ねていけることだから。
そして生きていることは、数えきれないほどの大切な事柄をいつでも思い出し、慈しむことができることだから。