昔から友達の定義が私には良くわからなかった。
少し話したことのあるクラスメイトは友達?顔見知りであいさつするくらいの子は友達?
私が一方的に友達と思っていても、相手が私のことを友達と思っていないかもしれないといつも不安を抱えていた。だからこそ少ししか関わりのない子を友達と呼んでいる子はすごいなと思っていたし、私自身はあまり関わりのない子を迂闊に友達とは言えなかった。
周りの人から見れば、私は友達が「多い」らしい
でもそれは、小中高での話。大学に入ってから友達に対する価値観は大きく変わった。なぜなら今までの狭く深い人間関係から、広く浅い人間関係が重視されるようになったからである。また、SNSの普及によって、特にInstagramでは投稿やストーリーなどで皆が人より優れていることを主張したがるようになった。いわゆるマウント行為である。
その中に友達の多さという項目があるのだ。
そうすると、私の中でもみんなの中でも友達のハードルが下がった。そんな環境下では周りの人から見れば、私は友達が「多い」らしい。
確かに多くの人からよくご飯や遊びに誘われるが、正直行きたくない誘いも多い。わざわざ行きたくない誘いを受けてまで、遊びに行くのは時間の無駄だとはわかっている。でも周囲の目やこれからのその人との関係性、全てが気になりだして結局断れない。
大学生たちにとっての友達というステータス。たとえ私の存在が相手にとってのステータスに組み込まれているものとわかっていても、いつしか自分もステータスが気になりだして、友達が「少ない」人と思われるようになることが怖くなった。結局自分も友達というステータスを気にし始めるようになってしまったのだ。
私が合わせることで成り立つ友人関係、すぐに壊れてしまうかも
私はいつでも周りに気を配り、他人に合わせようと神経をすり減らしながら過ごしている。だからこそ自分に合わせてくれる私を楽な都合の良い存在として、皆が自分の中の友達ステータスに追加するのかもしれない。
でもそれは必ずしも友達が悪いわけではなく、合わせることを強要されているわけではない。それなのに無意識に合わせなきゃ友達じゃなくなってしまうかもしれないと思っている臆病な自分がいる。だからこそ、「友達多いよね」と言われることを素直に喜べないし、本当に友達になれているのか不安になる。ひとたび合わせることをやめてしまえば友達はいなくなってしまうかもしれない。
「世渡り上手」で生きていく?
友達が多いことに自信を持ちたい
心の中の恐怖を隠しながら、私はいつも人と向かい合っている。ステータスのための友達は本当に友達なのだろうか?という疑問もある。
でも、人間関係とは誰にとってもそういうものかもしれない。
心のすり減りや恐怖を癒してくれる大切な友達だってもちろんいる。
あくまで、表面上の友達が大学生になることで増えた、と言うだけである。
とりあえず今は友達が「多い」わたし。それに疑問じゃなくて自信を持ちたい。
私は世渡り上手なのかもしれない
今までの人生の中で、人に合わせてきたからか、私は特に人間関係において困ることはなかった。これは一般に言う世渡り上手なのかもしれない。私には多くの人間が暮らしている社会で、たくさんの人と良好な関係を築く事が出来る力があると思う。
生きていくうちで一緒にいたいという人だけと関わっていくのは無理なことで、狭く深い友人関係は非常に居心地がいいが、ぬるま湯にずっと足をつけているわけにはいかないのだ。その中で私が培ってきた能力は非常に有用であると信じたい。
一緒に過ごしたいと思える大切な友達と、楽しくないステータスとしての表面上の友達、どちらも同じ"友達"と言う名の存在。
そんな矛盾を抱えながら、八方美人として過ごしていく日々も自分が思っているよりは悪くないのかもしれない。
世渡り上手で生きていこう。