どうせブスなんだから、化粧したって無駄。
そう思っていた十代後半。
所謂真面目な学生だった私は、外見なんか二の次で。頑張っていたら、内面、能力を見てもらえると信じていた。

それと同時に、母に化粧を教えてもらった時、淡いアイシャドウの色が合わなくて、まるで殴られたような目になってしまったトラウマから、化粧しても綺麗になれるはずがないと思い込んでいた。二重瞼の母と、一重瞼の私では、当然映える色が違うのだが、そんなことは知らなかった。

ブスなんだから、化粧して汚い部分を誤魔化さなきゃ。
そう溺れていた二十代前半。
人より長く続いた就職活動が、私に青い考えを捨てさせた。

外見が良くなければ、内面を吟味される舞台に立つことすら許されないと嫌でも気づいた。そもそも、私には大した能力も資格もない。私と同じような人間がいたら、そりゃ顔がいい方を取るに決まっているだろうと、この世の心理に気づいた。ただ、それを酷いとは思わなかった。私が選ぶ側の人間だったら、同じように感じるだろうと想像できたから。

人からの評価が自分の価値だと信じていた

人様に憐れまれる程酷い顔ではないが、綺麗と評される顔でもない。その事実を呪った。
特に一番嫌だと思ったのは目だった。切れ長の一重の目なんて価値はない。猫のように大きくてつぶらな二重じゃないと意味がないと思って、大きく見えるよう、いろんなことを試した。アイプチ、つけまつげ、アイシャドウ、人がいいと言っていることは、大体のことを試したと思う。整形も、まったく考えなかったわけじゃない。ぱっちりした目になれるなら安いもんだとさえ思っていた。

人に褒められたい、人に良く思われたい。就活中、社会に否定され続けた悲しい記憶が、私の思考を固定し、無事就職してからも数年間は、その記憶に苛まれた。人からの評価が自分の価値だと信じていた。人の意見に流され、惑わされ、ふらふらして、コスメを買い集めても、これじゃない、満たされないといつも不安に思っていた。積んだアイシャドウパレットは、今も私の部屋で寂しそうに鎮座している。

自信のなさを、見た目を良くすることで、誤魔化そうとしていた

そんな考えを捨てたのは二十代後半に入ってから。
自分でイマイチだと思った化粧をした日、人に褒められた。いつもなら、嬉しいと思うはずなのに、その時ははっきりと「嬉しくない」と思ったのだ。

そこから、私が容姿に固執する理由、私が化粧をする理由は、なんだったのかと考えるようになった。自信のなさを、見た目を良くすることで、誤魔化そうとしていたんだ。見た目を褒められれば、自信が持てるからと、信じていたんだ。
でも、それは、自分が嫌だと思う化粧をしてまで、得たいものじゃないとわかった。

自分の魅力を最大限に活かせる自分でありたい

そして今、私は二十代最後の年を迎えている。
今も人からは、コスメに詳しい、こだわっていると言われることは多いし、自分がもっと綺麗な顔をしていればと思うことはある。大きな瞳、涙袋、小さな顔に細い顎。こうだったらと欲を出したらキリがない。きっと、自分の顔を心の底から好きになることなんてないだろう。

でも、あの頃と違うこともある。
自分の魅力を最大限に活かせる自分でありたいと願うようになった。人からいいと言われる自分よりも、自分が納得できる自分になりたい。
私を一番綺麗にできるのは、私しかいないんだ。

なんて思い上がりかもしれないけど。そう考えて進むことにした。
ぱっちりとした二重瞼だったらなあと羨みながら、私は目尻にアイシャドウをのせる。
やっぱり切れ長の瞳には、はっきりとした色が映える。このことは、私だけが知っていればいい。