私には親友がいた。

中学生の頃、最初のオリエンテーションに行ったとき初めて会った子で、いつも一緒にいて、学校の帰り道も部活も委員会も同じだった。彼女が部長で私が委員長。趣味も同じで苦手なことも大体一緒だった。教室でも一緒に笑いあって、愚痴を言い合ったりしてすごく楽しかった。

でも、彼女と私は大きく違ったことがある。

それは、彼女が美人で私がブスだったことだ。

美人なあの子はブスな私とは違うんだ

ずっと前から違いに気づいていたわけじゃない。高校生になった頃、彼女が突然メガネからコンタクトにしたのだ。その時初めて、皆がかわいいというのを聞いて、どうしても超えられない壁があることを悟った。

それから彼女と一緒にいて、何をしていてもそのことが頭にあった。笑っていても、美人なあの子はブスな私とは違うんだ、と。

まだ彼女が美人なことを鼻にかけたやつだったら、マシだったかもしれない。そうすれば、美人だけどやなやつだ、自分の方が内面はずっといいはずだと納得できた。自分と比べて、何で彼女は美人で自分はブスなんだろうと比較しても、嫌悪感を抱かなかった。しかし、彼女は素直で優しくて何より自分が美人なことに無頓着だった。けれど、その無頓着さが逆に私を苛立たせ、そう感じては自己嫌悪に陥った。

何も言い返せなかった。だって私はブスだから

自分の顔が、美人とは言わないけれどももう少しマシだったらと何度思ったことか。
忘れもしない、同級生にあの子ブスだよねーと言われ、そう言った子の周りの人に、やめなよそんな事言ったらかわいそうじゃん、と薄ら笑いで言われたこと。スマホを鏡代わりに使おうと一瞬、カメラを内カメラにした瞬間、後ろにいた知らない人に、何あの子自撮りしてるの、自撮りするような顔じゃないでしょと小声で言われた事。今思い出しても背筋が凍り、涙が出そうになる。

でも、何も言い返せなかった。だって私はブスだから。ミルフィーユのように重なり合った自分の顔に対するコンプレックスは、何も悩まずにかわいいかわいいとちやほやされて生きているように見えた親友を見るたびにぐつぐつと煮えくりかえっていった。

自分が美しくならなくてもいいのかもしれない

しかし今後、美人な友達を見ては、比較するこの屈折した思いに、そろそろけりをつけたいと心のどこかで思っていた。そんな時たまたま、大学の授業で国家と生殖の授業を受ける機会があり、なぜ私は美しくなりたいと考えるのだろうとか、と自分の思いに向き合った。そこでやっと、自分が美しくならなくても、美しくなるために努力しなくてもいいのかもしれないと思った。

その授業では、ミスコンや体毛からみる美の歴史について扱っており、その背景にあるものについて学んだ。例えば、ミスコンの裏には主催する団体や提供企業がある。体毛を剃るべき、という今の時代に、そんな風習があることも、その裏に企業が関係しているのでは、という内容だ。

私はこれまで、きれいになること美しくなることは当然、努力すべきことだと思っていた。だが、メディアや世間の広告が美しくなることは素晴らしいこと、そうすべきと煽り立てる裏には、誰かが儲けてるのかもしれないと考えるようになった。もちろん、美しくなって自信をつけ、良い人生にするための方法ならば、メイクや整形、脱毛をすべきだ。しかし、広告やメディアで、皆が美しくなるための努力が必要なように発信されたり、一部の偏った人が考えている美人、イケメンの方が価値があるという考え方は問題であると思うようになった。

誰かと比べて落ち込んでもいい。そんな自分を愛してあげたい

テレビをつければ、きれいになろうという広告を投げかけてくるし、snsを開けば、とびきり可愛くてスタイルの良い女の子が微笑んでくる。youtubeでもメイク動画が乱立しており、ルッキズムとも取れるような広告もある。しかし、ただ美しくなるという世間からのメッセージをそのまま受け取るのではなく、その言葉の裏にはどんな思惑があるのか、経営に繋がるのか考えるようになった。

彼女はこの後も一生美人であり続けるだろうし、そして私は何倍も化粧に時間も金もかけて普通の顔くらいにはなれても、美人にはなれない人生を生きなければならない。一見すると私の人生ハードモードかもしれない。そして、私自身そう思っていた。でも、もう私は自分を許すことにした。美人でなくてもいいし、誰かと比べて落ち込んでもいい。不器用ででもそんな自分を愛してあげようと思えるくらいには余裕ができた。それは、美の風潮に流されないで自分の考えで生きていきたいと思ったからだ。