高校を卒業して少し経った頃から、ネット上でエッセイを発信するようになった。文章を生業にしたいという思いと、どの方向に努力をしたら良いのだろうという迷いに絡まりながら、とりあえず始めたことだった。

エッセイを発表するのはたのしかった。執筆中は空腹なものの、誰かに認めてもらえたとき一気に満腹になる感覚がたまらなかった。
書いてはネットの海へ流して誰かに拾ってもらえたり、どこかへ漂着したり。あるいは、行方知れずになったりしていた“それなりの日々”に、ある朝こんな言葉が届いた。

「あなたはきれい。きれいなだけだ」

自分を好きになれない自己嫌悪の気持ちを「きらいちゃん」と呼ぶ

私は、“自分をすきになれない人間”で、“すきになれない”という自己嫌悪が、あるとき私本体から乖離して膨張。宇宙がいつまでもそう続けるみたいに膨らんで、ついにはひとりの人格になってしまった。彼女のことは“きらいちゃん”と呼ぶ。

耳もとに唇を寄せて、くりかえし「愛されてね」と囁くきらいちゃん。思い返せばいつだって私は、彼女を想って生きてきたような気がしている。

才能のなかったスポーツ、それでもやったキャプテン、偏差値の高い志望校、クラスのリーダー、つま先立ちの恋愛、ライター業と、自分には大きすぎる何かに苦しんでいると、それだけでゆるされている感じがした。

ゆるされるというのは気持ちいい。ぬくい泉がポコポコ湧いて、ありがたがりながらほどけてゆくようなイメージだ。しかし、この快感は悪いことをしなくては、ゆるしてくれる人がいなければ味わえない。だから私は自分で苦しみを獲得して、自分でゆるしてやるしかなかった。

自己嫌悪の気持ちを優しくリボンで束ねたものが「エッセイ」

そんな自傷行為の延長線上に、エッセイもあった。

たとえば努力が得意ではないこと、わからないことが多いこと、ダサい過去や恥ずかしいプライド、取り繕って生きていること、底を這う死生観、自分をすきになれないこと、でも本当はすきになりたいのだということ。

鋭敏な“すきになれない”骨格に、ざっくりと刺されにいく勇気が私にはなかった。だから、ためらい傷のように散文をつらねて、優しさでできたリボンで束ね、そういうものを“エッセイ”と呼んでいた。

それはたまらなく憎くて、その反面とても愛おしくて。どう扱えばよいかわからなかったので、宛名も書かぬままネットに流していた。称賛されればホッと胸を撫でおろし、反応がなければタオルケットをかぶってどこまでも沈んだ。

そんなことで、きらいちゃんを愛せたような、愛されたような気持ちになっていた。

物書きになりたいと言いながらエッセイを書いていたのに、それは将来への努力なんて明るいものではなかった。きらいちゃんのゆるやかな葬式だった。

エッセイは「自愛や自由」に代わって、私を導いてくれるパスポート

頭が心よりずっと精巧ゆえに、世間が “しあわせ”をつくる公式かのように唱える“自愛”や“自由”が、私にはとてもむずかしい。

頭と心、私ときらいちゃん。互いの血液が交わるへその緒こそが、アイデンティティ。これを「すきだよ」と言えたら、言ってもらえたら、私は私を、そしてあなたを。だいすきになる。

エッセイが憎くて、でも愛おしくてたまらないということ。途方もなく苦しく、しかしそこに一筋の希望を感じている。それから、その希望の拡張が“すき”そして“しあわせ”につながっているのではと、漠然と思ってもいる。

この日々に絶望しているわけではない。でも、せっかくなら私はもう少し私をすきになりたいと思う。へその緒をたぐって、私を抱きしめてあげたい。思いきり。

私のエッセイは、“自愛”や“自由”に代わって、私を導いてくれるパスポート。