「よそはよそ。うちはうち」
小学生のとき、母親にそう言われながら育った。

みんなが着ているお洋服が欲しいと言ったときも、学校で流行っていたたまごっちが欲しいと言ったときも、そう言われた。

それと同時に「本当に欲しいの?」とも聞かれて「よく考えてみたらそんなに欲しくなかったのかもなぁ」とうまく宥められて、みんなが“持っている”という価値があるだけの、本当は欲しいんだか欲しくないんだかわからない物を諦めていた。

よそはよそ、学校のみんなが持っているからなんて、買う理由にならないよ。

比べないでよ。「よそはよそ、うちはうち」じゃないの?

高校三年生になった。そこそこの進学校に通っていた私は、受験のために第一志望の大学に向けて勉強する日々を送っていた。

しかし、どうも勉強に身が入らなかった。自分の人生にとって、いわれるがままに勉強をして良い大学に行くことが本当に正しいのか、わからなくなってしまっていたからだ。第一志望も、周りの同級生がだいたい視野に入れている大学というだけで、格別なこだわりがあって決めたわけではなかった。「よそはよそ」と言われてきたし、私は私だけの道を歩んでもいいのではないか。

そう考えていた、そんなとき。家族ぐるみで仲の良い幼馴染のAちゃんが、私の第一志望の大学に推薦合格した。彼女は元々語学力の資格を持っていたため、早期の対策が功を奏したのだった。私はそれを知ったとき「受験が早く終わって良いな」くらいにしか思わなかった。強がりなどではなく、その大学にそこまでのこだわりがなかったため、“友人の合格”という一つの事実として受け入れた。おめでたいニュースだと嬉しくなった。

しかし、母親は違ったようだった。受験を目前に控えた12月。どうにも勉強に集中できず、少しだらけてしまった時期があった。勉強のストレスが溜まっていた私は、母親に勉強をしていないことを指摘され、それがきっかけで言い合いになった。

口喧嘩をしていたとき、突然涙を流しだす母親。一瞬、何が起きたのかわからなかった。
そして、突然「悔しくないの?」と言われた。

え、悔しく?どういうこと???

母親は「幼馴染のAちゃんに第一志望の大学に合格されたの、悔しくないの?今は悔しくないかもしれないけれど、大学生になったら絶対に今勉強していないこと後悔すると思うよ。だから今勉強しなさい」と言った。

私は、わけがわからなかった。よそはよそ、うちはうちじゃん。なんでそんなこと言うの? 他の家も人も、私の将来には関係ないじゃん。他の人と比べることじゃないよね? 今までそうやって言ってきたじゃん?

絶句だった。馬鹿な私はあの瞬間初めて「よそはよそ、うちはうち」の言葉によって、自分がいいように動かされていたことを知った。

信じていた言葉の「矛盾」に、私はどうしていいかわからなくなった…

社会というものは、個人の集合体だ。社会では個人が複雑に絡み合っているとはいえ、“よそはよそ、うちはうち”のように、それぞれの特徴を持つ私たちがお互いを比べる必要はない。一人一人の個性は、相容れないものであって、比べることができないからだ。

しかし、社会を持続させるためには、その個人の位置づけを決める必要がある。そこに、“よそはよそ、うちはうち”という言葉では、カバーすることができない優劣や順位が生まれてしまう。

この“よそはよそ、うちはうち(だけど社会的地位の獲得のためには、よそとうちを比べなければならない)”という言葉の矛盾に、私はどうしていいかわからなくなった。

これから社会に出て生きていくときに、いつ“個人性”と“社会性”のどちらをどのように重視すればいいのか。高校三年生にもなって、当たり前の事実が目の前に降り注いできた。

私は、“個人性”を重視して生きていきたい気持ちが強かった。デザインや執筆とか、クリエイティブなことが好きだし、人と比べながら生きていきたくないからだ。しかし、絶対“社会性”は必要だ。社会性がないと生きていけないなんて、心の奥底ではとっくに知っていたのに、見ないふりをしていた。

個人と社会の狭間に追いやられて、どう動けばいいかわからなくなってしまった。

どちらかなんて選べない。だから、とりあえず動いてみよう!

大学で仲良くなった友人Bは、アイドルオタクだった。好きなアイドルがいる場所にはどんなところでも向かい、応援していた。

そんな彼女は、私のこの葛藤を聞いたときに「とりあえず、動いてみれば」と言った。個人の欲望や考えに沿って動いてみる。もし、それが極端に社会に馴染まなくて、社会の生活から隔離されてしまうような行動であったなら、やめてしまえばいいと。動いてみてから止まっても、遅くはないと。

そっか。どちらかなんて、選べないよな。“よそはよそ、うちはうち”。だけれども、“よそはよそ”といって動いた結果、それが多くの人や自分のこれからの人生にとって不適切なものであれば、すっぱり辞めちゃえばいいんだ。

そう考えると、“よそはよそ”に拘って生きていこうとしていた自分が、馬鹿みたいに思えてきた。個人性とも社会性とも馴染もうとせず、どちらか一方を選ぼうとしていたなんて。そういえば、前から頑固な人間だったな、私って。

とりあえず動いてから、何もかも決めよう。動いてから辞めたって、決して遅くはない。よそはよそ、うちはうち。だけれども、うまく社会に柔軟に対応して、社会を歩んでいこう。