29歳になった翌日の朝、彼氏に振られた。

憂鬱に支配されてお先真っ暗だったけれど、仕方なく消化する日々の中で、いつの間にかそんな時期も過ぎた。

20代最後の誕生日ケーキのロウソクを吹き消したとき、もう女の子を卒業したと思った。それは絶望であり、アイデンティティの消失だった。独身で、彼氏もいない、もう女の子ではない、私。学生時代を共にした友人は次々と結婚していき、なんとなく波に乗れない自分だけが、30歳という大きな壁を前に立ち尽くしていた。

独身で彼氏もいない私は、30歳の大きな壁を前に立ち尽くしていた…

思えば私は、いつだって“選ばれる”ことが、大切なんだと思っていた。学生のときから、社会に出てからもずっと、誰かに評価され認められることこそが、自分の価値だと思っていた。「かわいい」と言われたい、一目置かれたい、それが無理ならせめて、なめられない自分でいたいと。

だけど、私はいつも自分にコンプレックスを抱えていた。自分の学力にも、外見にも、なんとなく冴えない人生にも。こんな私じゃダメだと思っていた。

なぜなら、輝いていない女の子は誰からも求められないから。選ばれないから。いつも劣等感を抱えて、外で知らない人とすれ違うことさえ嫌だった。私の周りは、可愛くて素敵な女の子たちに溢れていて、自分の価値がどこにあるかなんて、なんにも分からなかったから。

周りと比べることなく、もっと「自分」を大切にしてあげれば良かった

最近、世界を生きづらくしているのは自分自身だと、なんとなく気づき始めている。自分に足りないものを見つけることが得意で、そればかり数えてきた。気になる異性や行きたい会社から選ばれない日々に何度も傷ついてきた。報われない努力に、何度も嫌気が差した。同級生の素敵な生き方と比べて、惨めな気持ちだった。

けれど、とうとう30歳までに結婚もできそうになくて、私は多くの友達と違う土俵にたどり着いていた。そして思ったのだ。誰かに選ばれたいだなんていう幻想は、女の子だった時代に置いてこなければならないのだと。

これからは、自由に生きればいい。男ウケも、まるで判に押したような時期に誰かと付き合ったり、結婚したりする人生も、目指さなくていい。そう自分で思えたとき、許されたように感じた。開放されたように感じた。そうしてその足かせを作っていたのは、世間と自分自身だと気づいた。

どうして、あんなに誰かと比べていたんだろう。学校で一番かわいいあの子、頭のいいあの子、かっこいい彼氏と結婚したあの子、いいところに就職したあの子。

でも、もっともっと自分に目を向けて、大切にしてあげれば良かった。その頑張りを、認めてあげれば良かった。不登校の友達を支え続けた学生時代も、泣きながら頑張った就職活動も、傷つきながら働き続けたあの時の自分も。タイムマシンがあるのなら、私はあの時の私を抱きしめにいく。

あなたは十分、素敵でチャーミングで、かけがえのない女の子だよって伝えてあげたい。

歳を取ることは怖いけど、これが「私の道」なのだと強く歩いていこう

今でも、砂時計の砂が落ちるのを止められないみたいに、抗うことのできない年齢におののく。歳を取ることは、いくつかの可能性を失っていくようで、まだまだ怖い。それでも、いつか見ていた図太いおばさんの気持ちが、少しわかり始めている。

「私が幸せなのだから、それでいいじゃない。何かを持っていても、いなくても」そう胸を張っていられるようになっているから。

こうして人は歳を取るのだろうか。それは恐れであり、安堵だ。若さを失うということは、生き易い世界を手に入れるっていうことかもしれない。もっと、強くなりたい。これが私の道なのだと、ずんずん人をかき分けて歩いていけるくらいに。