ルッキズムという言葉は、身体的に魅力的でないと考えられる人々に対する差別的取り扱いのことを指す。

一方、身体的に魅力的な人たちはそのルックスで得をする傾向にあるという。

ルッキズム、果たしてそれは本当だろうか。私は、そこそこの美人だ。美人は、得なのだろうか? 正直言うとわからない。
一つ確かなのは、今の私はそこそこ顔がよかったがために自分自身にかけた呪いに苦しんでいる、ということだ。

私は「自分の顔」が好き。でも、逆をいうと顔以外は好きじゃない

私は、一般人レベルのそこそこ美人である。絶世の美女ではないし、街行く人が全員、振り向くわけでもない。ただ、現代においては美人に区分されるタイプの顔であると自負している。目は二重で鼻も高めだし、下を向かなければ顎のラインもなかなかだ。目の色は生まれながら薄く印象的で、まつげも短くない。

私は、自分の顔が好き。でも、逆をいうと顔以外は好きじゃない。体型にも内面にも全く自信がない。何もない私から、そこそこの容姿を取ったらどうなってしまうのか、考えるのも恐ろしかった。

体型が好きじゃない。人の前を歩くのが苦手だ。体を見られている気がするから。ボーリングなど、一人に他の人が注視する遊びも苦手。「へえ、意外と太ってるな」と思われたくない。また、メイクしている時の鏡は好きでも、試着室で見る鏡にはがっかりする。全身鏡なんてなくなればいいのに。

内面も好きじゃない。否定されて育ったことが原因だと思う。母は厳しく、なんでも「私のせいだ」とよく言った。卑屈で嫌味っぽい、その性格はきちんと引き継がれていて、それに抗って生きている。私と恋人になる相手は、まず私の内面ではなく顔を好きになる。だから、付き合いが長くなりぶつかるのは、顔に飽きて性格を知られたからだと思ってしまう。

顔を褒められると「よかった」と安堵する自分と「やっぱり顔しか見ないのか」と落胆する自分がいる。

容姿を褒められると、顔以外に「価値」がないのかと思ってしまう…

幼い頃は、腫れぼったい目に鼻も低くて顔はまんまるだったのが、成長に伴い変化したことも関係している。友人にはよく「ほんと、今の顔に成長してよかったね」と言われた。私自身も、今と全然違う顔の昔の写真をネタにしている。

このように、何の気なく「今の顔でよかった」と再確認を繰り返していた。でも、それは「今の顔でなければ、私は悪い、無価値だ」と自分を下げ続けるのと同じだった。容姿を褒められると同時に、自分の顔以外に価値があると思えない気持ちが湧いてしまう。その思いは、池の底の暗い淀みのように、20年近くどんよりと積み重なっていった。

社会人になるまでは、友人に容姿を褒められることや出会いの場(例えば合コンやナンパなど)で、初対面に関わらず容姿について意見されることは多かった。本心かもわからない言葉を真に受けて、喜んでいたのだと思う。それが自分自身を苦しめる呪いとは知らずに。

そんな私に、ついに恐れていた事態が起こる。容姿を褒められることが少なくなってきたのだ。加齢もあるだろうし、社会が「容姿に対して言及するのはおかしい」というごくごく当たり前のことに、少しずつ気付いたから。何度か転職を経験したけれど、リテラシーの高い企業の人ほど容姿に触れないのも、社会が変わってきたからだろう。

以前は入社するなり「目の色綺麗だね、生まれつき?」「モテそうだね。遊んでるでしょ」などと言われたこともあった。「顔採用」と人事が笑っていたと、人づてに聞いたこともある。そんなことを言われている時は、失礼だ煩わしいと思っていたのに、何も言われないのも不安だった。顔を褒められないのに、私ってここにいてもいいんだろうか?

ルッキズムに1番毒されているのは、自分自身に対してなのかもしれない。

まだ遅くない!からっぽの「内面」を少しずつ詰めていこう

私って無価値なのでは? という不安が、年々増えるのは顔だけに価値を感じていたからだと、近頃やっと気付くようになった。

まだ遅くないだろうか。これから自分の中に少しずつ好きなところを増やして、からっぽの中身を少しずつ詰めていけるだろうか。結局は、内面の充実こそが輝きなのだと思う。見た目の美醜関係なく、前進している人は美しい。

結局1番ルッキズムに踊らされていたのは、私だった。自分で自分に呪いをかけ続けていたのだ。ルッキズムなんて、くそくらえ。そこそこ美人にしがみつくのをやめて、私は私の内面を育てたい。