わたくしには、まわりの子よりも顔の形状がながく肩幅がごつごつしているという特徴がありました。そのことに気がついたのは、ランドセルを背負うようになってからでした。ランドセルを背負うと、胸のあたりの布がぴいんと張って、あせのしみが良く目立って居たからです。そして、わたしは胸がひとより膨らんでいて、それにいちはやく気がついたお婆ちゃんには「シノちゃんは出っちり鳩胸ね。」と、褒めてるんだかなんだかわからない文句でウィンクされたりして、わたくしは順調に高校生に成りました。

「かっこいい女の子」で居ることで自分をごまかしていた

→「かっこいい女の子」というかくれ蓑で自己を隠すということ

豊満な乳房が相棒であることは、まだそんなに恥ずかしくありませんでした。それから、人づたいにそのとき好きだったひとから陰で「おっぱいくん」と呼ばれていることが判りました。買ったばかりの可愛いひらひらした乳バンドを、無造作に掴み、床に投げ捨て、そのまま激安衣料品店へ、スポーツブラジャーを買いに走りました。それからぐうっと猫背になって、頭痛持ちになりました。ある皮を、ある精神のかくれ蓑を被るように成りました。

あるシンガーソングライターに憧れて、毎月けっこうおかねをかけていた髪の毛をバッサリと切り落とし、スカート類はダスト・ボックスにおしこみ封印しました。眉毛は勢いよく剃り落とし、運動部に入部して、おひさんで顔をこんがりと焼きました。歩くときは、なるべくポケットに手を突っ込んでウロウロしていました。周囲の子から「イケメンだね。」と言われるためにどういう仕草をしたら良いのか、そんなことばかりこころがけていたらなんとなく上手く生きることができているような気がして、嬉しかったのです。
「かっこいい女の子」で居ることで、自分のみためのアンバランスさをごまかすことができると思いましたし、じっさいそれはたいへん上手くいきました。

自分のことは自分にしかわからない、わたしはいつまでかくれ蓑をかぶるのか。

心と自分の性別が異なる人がいることは知っていましたし、わたくしにはなんの偏見もありませんでした。ただ、そうやって主張できている方々が、少し羨ましくかんじたこともありました。

わたくしは心も性別も女の子です。にんげんの趣味志向には、性別によって「らしさ」などという決まりがないこともわかります。ただ、寂しかったのです。わたしは二枚目で運動神経抜群の父親に見た目がよく似ています。ちなみにお母さんは、少女らしさを忘れない、丸顔でぱっちりお目めのかわいらしいひと。わたしは、そんなお母さんに歯並びしか似ていないのです。小さい頃から「おとうさんそっくりね。」と言われれて、お父さんとおんなじメンズメイカーのおべべを着せてもらって、よく似合うねだなんてたくさん褒めてもらって、わたしはにこにこして、そこに居ました。ほんとうは嫌でたまりませんでした。
25歳になった今も、お化粧の上手なやり方を覚えた今でも、わたくしはかくれ蓑をかぶって生きております。