小・中学生時代をクラスの窓際族として過ごし、高校の三年間を女子校に捧げてしまった私にとって、「恋人」というのは、手の届きようがないほど遠い存在に思えてならなかった。
大学進学と共に始めた人生で初めてのアルバイトは、だから、私の未発達すぎる異性へのセンサーをめちゃくちゃに掻き乱したのだ。

羨みと憧れと妬み嫉みと諦めと…、その時期の私は恋愛に対して、いろんな感情が何周もしていて、とてもこじらせていたと思う。女だけの園から三年ぶりに解放されて、夢にまで見た共学の世界に飛び込んだはずが、理想と現実の違いに戸惑うばかりだった。周りの同級生が髪を染めたり化粧をしたり、どんどんと新しい世界に適応していく中で、ひねくれ者の私はサークルにも入らず、春の終わり頃になっても周りに溶け込めないままだった。
そんな中、知り合いの紹介で始めたファミレスのバイトは、人間関係も仕事内容も、とにかく初めての連続で、私は毎日あっぷあっぷだったことを覚えている。

初めてのバイト先で「仲良くなること」に戸惑った

指導係となった先輩はとにかく高飛車で感じが悪かったし、覚える仕事が多すぎて毎回わからないことだらけだったし、自分の手際の悪さに自分自身でイライラした。何より私を困らせたのは、「仲良くなること」だった。
もともと大の人見知りで、18年の人生の中で友人と言えるのは片手に収まるほどしかいなかった。バイトの同年代は、みんな当たり前のように共学出身で、みんな当たり前のようにコミュニケーション能力が高くて、ただでさえ先輩にいびられて萎縮している私では、どう頑張ったって太刀打ちできるはずがないような気がした。

みんなが集まって飲み会を開いたり仲良くなっているということは風の噂で聞いていたけれど、私は別に羨ましいとも思わなかった。
生きているフィールドが違う人達なのだから。私なんかが仲良くなんてなれないのだから。
周りも私のその鉄壁のガードを了解して、そっとしておこうというような流れになっていた頃だったと思う。

どうしてだろう。私だけが彼の匂いに敏感らしい。

彼は同い年で、同じ大学の人だった。私と違って、みんなと仲が良くて、仕事の覚えも早くて、テニスサークルに入ったりなんかして、きっと中学生の頃から住む世界が違っていた人だった。
そんな人が、「あの子と仲良くなってみたい」と言っていたら、たとえそれが「同じ大学だから」という意味だとしても、私をドギマギさせるには十分すぎたのだ。

彼の匂いが好きだった。付き合うよりずっと前、まだ彼のことを好きだという自覚を持つ以前からだった。
レモンのような、柑橘系の匂いがする。と言っても、同じバイトの誰も同意してはくれなかった。
どうしてだろう。私だけが彼の匂いに敏感らしい。
それは、まるで私と彼だけの特別、のような気がして、少女漫画思考の私は、自分と彼との間に物語を感じて、急に湧き上がってしまったのだった。
そうなると話は早くて、あんなに恋愛をこじらせていた私に、案外あっさりと初めての恋人ができた。

変わっていく同級生をどこか小馬鹿にしていたはずが、彼と一緒に行く夢の国や、それをSNSにアップすること、記念日を祝うことは、どれもとても楽しかった。彼のために可愛くなりたくて、髪を染めたり、化粧を覚えたりした。
大学もバイトも同じ私たちは、本当に四六時中一緒にいた。
幸せだった。
ようやくやっと、私は選ばれて、主人公になれて、窓際から脱したのだと思った。

どうすればより長く彼と一緒に居られるかしか考えていなかった

バイトのコツもすっかり掴んで、人間関係の築き方もわかってきて、あの頃の、妬み嫉みの殻を脱いだ頃に、私は気付いた。
自分がとてもつまらなくなっていることに。
とにかく彼が全てで、彼さえいれば何もいらない私は、どんどんと彼への依存を強めていって、彼を拘束するようになっていた。

熱中していた趣味はとっくの昔に放棄して、どうすればより長く彼と一緒に居られるかしか考えていなかった。
自分がなくなることへの恐怖と、彼から感じるそこはかとない拒絶感と、彼への期待が高まりすぎるがゆえに生まれる現実との落差と…いろいろなものが限界に思えてしまって、私は、彼と別れることを決意した。
だって、付き合うのが初めてなら、別れることも当たり前に初めてなわけで、どういう時が本当に別れるべきタイミングなのか、私には全然わからなかった。
結果的に、恋愛初心者の私は、世界で一番大好きな恋人に自分から別れを告げた。

特別じゃなくてもよかったのだ。だけど、私はまだ期待している

彼と最後に会ってから、もうすぐ一年半が経つ。
色んなことを、少し距離をとって見られるようになったと思う。
魔法が解けるように、色んなことに気づいたりもした。

電車の中で、彼と同じレモンの匂いがして振り返ったら、部活帰りと思われる男子高校生の集団と遭遇した。
あれ、もしかして、この酸っぱい匂いは、汗の匂いだったのかな…。
そういえば高校時代、塾に通ってる友人はよく「男子って汗臭い」って言っていた。

私は、高校三年間、本当に全く異性と関わりがなかったから、それがどんな匂いなのか全然わからなかったけれど。
なんだ。別に、何も特別ではなかったのだ。
憧れだけが肥大して、自分をヒロインだと思い込んで…。
幼すぎる恋愛が、自分に夢を見させていただけだったらしい。そう思うと、とても馬鹿らしくて、滑稽で…。

でも、特別が残らなかった彼のことが、私はまだまだ忘れられない。
特別じゃなくてもよかったのだ。どうせありきたりな二人なのだから。
だけど、私はまだ期待している。一年半も経って、「やっぱり君しかいないんだ」と私の前に現れる特別を。