●ヒコロヒーの妄想小説:本日のお題「マスカラをしない理由」

デパートの化粧品売り場は独特な匂いがしていた。
いい年齢になっても基礎化粧品、というものの意味さえ理解できていない自分が闊歩するには居心地の悪い華やかな道が幾つにも広がっていて、どこに進んでも間違っているような気がしてしまう。綺麗に陳列された爛々とした化粧品を何と無く眺めながら歩いていると、鮮やかなパッケージが目を引くリップグロスが目に入った。従来の縦長いそれではなくて、四角いパレットのようになっていて物珍しかったため少し手に取ってみようと思ったが最後、美容部員のお姉さんに声をかけられ、あれよあれという間にカウンターに案内され、気付いた時には自分の唇に綺麗に紅がさされていた。

「マスカラもされてないんですね、試してみますか?」

満面の笑みのお姉さん、お姉さん、と言っても自分より二つか三つは年下だろうが、彼女の笑みの圧に屈し、はいと返事するほかなかった。
目の前にあるカウンターに置かれた丸い鏡には、化粧っ気のない自分の顔で唯一彩られている唇が気まずそうに映し出されている。休憩中や終業後に特に直す習慣のないファンデーションはよれて、目元のあたりが皺っぽくなっている気がする。

「こちらがセパレートタイプで、こちらがロングタイプです、こちらはお湯でオフできて」
お姉さんが数本のマスカラを持ってきてくれて細かく説明を始めてくれたが、彼女の顔面と鏡の中の自分の顔面を見比べれば、あまりにも色味が足りなくて呆れてしまった。
「あの、ファンデーションとチークと、それから、アイブロウとアイシャドウも試してみていいですか?」

「いいえ、このネックレスは自分で買いました」

「スーツじゃない小佐田さん見るのすごい久しぶりな気がする」
バーカウンターで高瀬さんが腕時計を外しながらそう言った。
「高瀬さんて、いつもすぐに腕時計外しますよね」
「重いんだよね」
「いいものなんじゃないですか?」
「重いだけで良いものじゃないよ、盗られても平気だから気楽に外せるの」
そう言って高瀬さんはふふっと笑い、なんか暑いねと言ってスーツジャケットを脱いで店員さんに「これお願いします」と声をかけた。

「そのネックレスよく似合ってるね、彼氏に買ってもらった?」
バーテンに、バーボン水割り二つ、と言ってから高瀬さんは微笑みながらそう尋ねてきた。
「いや自分で。彼氏なんていません」
「うそ、渡辺さんたちが、小佐田さんは最近彼氏できたってでっかい声で噂してたよ」
「ほんと事務の人たちって暇ですよね」
あはは、という高瀬さんの快活な笑い声が他に誰もいない店内に響き、でた、小佐田さんって感じ、と笑いながら手の甲で鼻の下を触っていた。

「どうしてあなたはそんな風に隣の女をそやすことができるのですか」

「福岡での生活はどうですか?」
目の前にはいつの間にか、コースターの上に乗ったバーボングラスが置かれていて、私は飲むでもなく、なんとなくグラスを揺らしていた。
「別に何も変わらないよ、あ、でも博多弁使う男って迫力があってかっこいいんだよね」
「ああ、女性の博多弁も可愛いですしね」
「ううん、俺は関西弁が好き」
そう言って高瀬さんは私を見てまたふふっと笑った。
「もう、そういうのいいですから」
「たまに小佐田さんが関西弁でちゃうの好きなんだよね」
まるでテレビの向こうの女優さんをそやすようにして、どうして隣の女をそやす事がやすやすとできてしまうのだろうかと、高瀬さんと会っているといつも訳が分からなくなってしまう。

「俺が福岡行って、せいせいした?」
覗き込むようにして私を見つめる高瀬さんに、変な質問ですね、と言うしかなかった。
「小佐田さんってあんまり何考えてるか分かんないんだもん」
高瀬さんはグラスをくっと傾けてバーボンを飲んだ。コースターの横に置かれているシルバーの腕時計は、午前1時を指していた。
「お子さんは何歳になったんですか?」
「何歳だと思う?」
「ふふ、コンパの女の子じゃないんですから」
そう言うとあははと高瀬さんは笑って、また手の甲で鼻を触った。
「高瀬さん」
「うん」
「私、もう高瀬さんとは会わないです」
その瞬間にパッとこちらを見た高瀬さんは、すぐに目線を落として、やっぱり微笑みながら、そっか、と小さく言った。

本当に欲しかったのは他の言葉で、そしてそれは絶対に言ってもらえない言葉

「運転手さん、外苑西通りから行ってあげてくれますか」
拾ったタクシーの後部座席に乗り込んだ私の横で、開いたドアから覗き込むようにして高瀬さんが運転手にそう告げた。
「ごちそうさまでした、福岡での生活、楽しんで下さいね」
「仕事で会えたら良いでしょ、会社、辞めちゃだめだよ」
「はい、ありがとうございました」
「小佐田さん、綺麗になったね」
「お客さん、外苑西通りだと、次の角でUターンしなきゃいけないんですが良いですかね」
「ああそうしてあげて下さい、じゃあね、おやすみ」
それからドアがぱんと閉まり、窓の向こうで高瀬さんがひらひらと手を降った。咄嗟に会釈をしてから顔をあげると、もうタクシーは走り出していた。

タクシーの窓ガラスには自分の顔が薄く反射していて、眉尻までしっかり残っている自分の眉毛はなんだか無理しているみたいで嘲笑いたくなった。グロスを重ねた唇なんてとっくにひりひりしていて、手首にはアイシャドウのラメが薄づいている。最後に高瀬さんに、やっぱり綺麗だと、そう言って欲しかったくせに、いざ言われてしまえば、そんな言葉に何の意味もないことに気が付いてしまうのだからばかげている。ずっと本当に欲しかったのは他の言葉で、そしてそれは絶対に言ってもらえない言葉で、そんなことに最後の最後に気付いて、自分がどうしようもなくみじめになって、もうだめだった。目がじわっと熱くなってきて、しばらくしてようやく目尻を拭った時には黒いマスカラが指にべっと付いてしまった。
「濡れても落ちひん言うてたくせに」
「え?何か言いました?」
「嘘つきやんけ」
「え?なんですか?」
ずずっと鼻をすすってから、運転手を睨んで「さっきからずっと間わるいねん」と悪態をついた。