私、自己肯定感は低いけど自己愛はめちゃめちゃ強いんです。

「ゆきだるまさんは自己肯定感が低すぎるのかもしれませんね」大学時代に何気なく受けたカウンセラーさんに言われた言葉。
今思えば、その言葉は当時の私にピッタリすぎる表現だったと思います。
どのくらい自己肯定感が低かったかというと、まず電車で座席に座れませんでした。デブでかつ肩幅が広いので、座ったら隣の人に迷惑をかけるかなと思っていたんです。
あと、満員電車に乗っているときは「デブで邪魔してごめんなさい、きついですよね」と心の中で呟いていました。
仲のいい友達にさえ、太った後ろ姿を見られることが嫌でした。
合コンなんて相手にされないの死ぬほど分かってるから、絶対行きたくなかったです、、、。
ある日、大学の研究室(哲学や倫理を専門にしている研究室)で私はボソッと「自己肯定感めちゃめちゃ低いけど、私、自己愛は強い気がする」と言ったことがあります。
何となく出た言葉でしたが、教授は私に言いました。「それはなかなか鋭い。自己肯定感と自己愛は必ずしも比例しないかもしれない」と。今思えば、なかなか興味深く的を射ていたように思います。
私は大学時代、この自己肯定感の低さと過剰な自己愛という矛盾と葛藤にとにかく苦しめられることになりました。
私は、自己愛と、プライドの高さはどこか似ているのかな、と思っています。
私のプライドの高さは大学時代は特に異常でした。
かなり偏差値の高い高校を卒業しましたが、大学受験では滑り止めの滑り止めの大学しか受かりませんでした。
私はなくなく救済してくれた大学に通いましたが、大学に入った当初は心の底で、私が1番頭がいいと思っていましたし、そうじゃなきゃ許せないと思っていました。
勉強に関しては絶対負けるわけない、そもそもここの授業は簡単すぎてアホらしいと。
恐らくこのプライドの高さは言動に出ていたと思います。
周りの大事な友達を不快にさせてしまったかと思うと、今は申し訳ない気持ちでいっぱいです。
でも、このプライドの高さは自分を守りたいだけで、本当はわかっていたのです。
私は頭が良くないことを。
学問は多少できても、本当は何も知らない無教養の人間であることを。
頭が良くて高学歴でなんでもできる細くてかわいい理想の自分と、無知でデブな現実の私。
あまりにもかけ離れていました。
でも、傷つきたくないから、誰にもバレないように、賢いフリをして周りを見下すことでプライドを保っていました。
腰が引けているのにすごい剣幕で吠える犬と同じですね。
見た目におけるコンプレックスはコンプレックスすぎて誰にも言えませんでした。
よく「私〇〇がコンプレックスなの~」って言ってる人を見ると、嘘だよな、と正直思ってしまいます。
そんな明るく言えるほどコンプレックスは甘くないのになあと。
私は体型のコンプレックスが強すぎて、仲間内でダイエットの話になるといつも黙って聞かないようにしていました。
さらに私は、めちゃめちゃ完璧主義者でした。
なんでも100%完成してないと気がすまず、時間の管理ができない自分、ダイエットができない自分などを許すことが全くできませんでした。
いつも自分にイライラして心は忙しなかったです。
大学の心理学でマズローの5段階欲求を勉強したときはどこか他人事のように思っていましたが、今思うと私は『承認欲求』段階真っ只中だったのです。
とにかく友達に、たくさん褒めて欲しかった。
かわいくないのはわかっていたけど、かわいいと思われたかった。
頭はよくないけど、羨望の眼差しで見られたかった。
まあ、本当のところは誰よりもまず自分に承認して欲しかったんですけどね。いつもいつも欲しい欲しいのハングリー精神の塊でした。
今でもこの葛藤には常に苦しめられています。
私は自分を愛したいし、守りたい、という自己愛の激しさと。だめだと否定しつづける自己肯定感の低さ、、、。
「ゆきだるまちゃんは、外見も内面も完璧だね」といつだって言われたい。分かってます、そんな人世界中どこを探してもいないことは!!
『自己愛の強さ』と『自己肯定感の低さ』、矛盾しているような気もしますし、もしかしたらどこか表裏一体なのかもしれません。
この葛藤を打破するには、『自己愛を弱める』『自己肯定感を向上する』のがいいのか?そうしたら、幸せになれるのか?
いや、きっとそんな簡単なことじゃないんだろうな。
だから私は、終止符を打ちたいとは思わないんです。
結局のところ、こんな自分も愛したいので、、、。
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