ダイバーシティ、多様性、という言葉がよく叫ばれる時代になった。色々な価値観を持つ人間の存在を肯定する、まさしく優しい世界。しかし、多様性を認めるということは自分とは違う人間を認めるということだ。白黒はっきりつけられるような世界ではなくなっていく訳だが、それを受け止められる人ばかりではないだろう。私がその1人だ。

自分で言うのも何だが、私は自己肯定感がかなり低いと思う。時々自分の性格や自分の行動など、他者の前で生み出したものについて褒めていただける機会がある。勿論嬉しく感じるのだが、どうしても「自分」を褒めてもらった気がしない。

また、これは当然のことではあるが怒られる時もある。そういった時は、「自分って出来ないことだらけの至らない人間だもん。そう思われて当然だよなあ。」と思う。はたまた結果を出して誰かにそれを認めてもらえなければ、そこまでの過程でやってきた自分の「頑張り」というものは世間で言うところの「頑張っている」には入らないと思っている。どうやら私は、自分には価値がないということが無意識のうちに刷り込まれているということについ最近気がついた。

自己肯定感が低いのもありのままの私。どうして認められないの?

しかし、私はこうも思うのだ。どうして自己肯定感が低くて悪いのか?と。自己肯定感を上げろ、と自分の全てを知ることのない他者から言われるのは何だか違う気がする。

私は自己肯定感が低い人間は総じて「対応に困る」とよく言われているように感じる。自己肯定感が低いから、他者の態度や言葉を利用してようやく自分の機嫌が取れる未熟者。自虐ネタを繰り返し、そんなことないよと言われることで安心感を得ている。等々。挙げればキリがない。私もついつい自虐ネタを口走りがちだと言うことを自覚しているし、あまり出さないように気をつけてはいるつもりだ。

ダイバーシティとは様々な価値観の人間がそのままで暮らせる場所であるはずだ。であれば、なぜ自己肯定感を上げることを他者に求められなければならないのだろうか。私に言わせてみれば、自己肯定感が低く、自虐的な発言をしてしまう状態そのものがもう「ありのままの姿」である。どうしてこの姿は認めてもらえないのだろうか。私にはどうしても、他者を気にした結果として自己肯定感を上げることを求められているような気がしてならない。

自分と違う人を認めることって、口で言うほど簡単じゃない

しかし、私も私で人のありのままを認めることは難しい。友人だと思っていた人に、その言動から雑に扱われていると感じて嫌な気持ちになることがよくあるのだが、そのような扱いをする人は大抵「これがありのままの私であり、今更変えることはできない。人に気を遣って言葉に気をつけることはできない。だから、受け入れてほしい」と言う。自分では弱い私を受け入れてほしい!と主張するのに、私は相手のありのままを受け入れられるか?と自問自答した時、すぐにyesとは言えなかった。

人に優しく丁寧に。それが一般的な「正しい行い」とはされているが、それに当てはまらない言動の中には、実は愛が篭っているものであったり、はたまた私が重く考えすぎていたということだって存在するのかもしれない。しかし、そういった言動を自分は丸ごと認められるかと言われたら、答えは否である。傷つくのはごめんだ。

自分に合わない人を認めろ、というのはなかなか難しい。ダイバーシティだなんて何を綺麗事を、というのが本音だ。その弊害も知らずに良いよね、と支持している人々を見るとよく言えるなあと思ってしまう。それでも、時間がかかっても、私は他者を理解できる私になりたい。

弱さも醜さも、私だから。全部ひっくるめて認められたいし、認めたい

最近の私はよく「そんな私でもいいよね」と呟くことが増えた。自信がなくて、他者からしたら弱っちくて、人の目が気になって。その上、人のことをなかなか認めることができない。それでもいいはずなのだ。だってダイバーシティなのだから。その苦しみも、弱さも、醜さも、みんな含めて「私」だから。それは変えようのない事実であり、そんな「私」でもきっとこの世の中で認められるべき存在だ。

そして、私が認めることが難しいと感じてしまった人々も、勿論認められるべき存在だ。全てを好きになることは難しくても、人には色々な側面があることを認めていき、理解することならきっとできるはず。

結局私も、綺麗事を述べるだけで終わってしまった。それでも、弱くて不安に怯える私を受け入れられたら、そして合わないなと感じた他者を受け止められたなら、その先にはきっと本当の優しい世界があると信じたい。それを机上の空論で終わらせないために、鏡の向こうの私とにらめっこしてみる。自省ばかりの毎日だけど、意味はあると信じて。