女の子は普通、年頃になったら恋に落ちて、幸せな気持ちになったり、喧嘩して泣きながら夜の公園を歩いたり、また心を通じ合わせて幸せを再確認したりするものだと思っていた。

しかし、それらは私にはやってくることはなかった。

性格を自覚してから、区弁されていた「男女」の概念がなくなった

どうして私は、恋人ができないのだろう。私は、今まで恋人になるほど異性と親密になったことがないし、どこかそれを避ける傾向があった。

そして、ゲイやレズビアンの人たちが、堂々と恋愛を楽しんで恋愛の権利を訴えることが、とても羨ましいとさえ思った。どうして彼らはあんなにも楽しそうに恋をしているのだろう。私に恋人ができないのは、人として未熟だからだろうか、見た目の問題だろうか、それとも性格が悪すぎるのだろうか。原因を考え始めると気持ちがどんどん落ち込んでいき、いつしかやめてしまった。

私が自分の“性”格を自覚したのは、25歳の初夏、つい最近のことだった。自己分析をして、インターネット検索をした。ノンセクシャルを簡単に説明すると、恋心は抱くが性欲は抱かない、というセクシャリマイノリティの一つだ。まさに、私はそうだった。

昔からあまり他者に興味を持たず、面倒な交友関係はバサバサと切り捨てるような性格だった私は、恋愛対象の男性に対してもそうだった。理想が高すぎるのか、それとも私の出会いの運が悪いのか。色々悩んだりもしたけれど、ノンセクシャルという性格があると知ってから、私は肩の荷が降りたように楽になった。

ガチガチに区弁されていた“男女”という概念が、私の世界から消滅したような気がした。その日から、私は男性や女性ではなく、自分も他人も同じ“人間”だと思えるようになったのだ。

私のようにLGBTの人は、この地球上にきっと何人もいるのだろう…

ノンセクシャルを自認してから、時々打ち明けることがあったが、それはほとんど理解されることがない。当たり前のことだ。私自身、恋愛を日常的にしている人の心理を理解できないように、彼らも私の心理を理解できないのである。

けれど、歴史を調べてみると、生涯独身を貫いた女性も男性も山のようにいた。私のような人は、この65億人が住む地球上にきっと何人もいるのだろう。

私はまだ、自分のセクシャリティを両親に打ち明けられていない。母は「あなたが結婚するまでは死ねない」と言うし、父はLGBTの人に対して、少し差別的な見解を持っている。日本では未だ、女性は男性と結婚し、子どもを産んで育て…というのが一般的だと思われる傾向があるように感じる。この多様に変化を続ける地球上で、なんと頭の固いことか。この先、私は打ち明けられるのかわからない。打ち明ける必要は、ないかもしれない。

というのも、私のノンセクシャルという性格は、まだ確信的ではない。26歳の私自身、まだまだ性格は変わるし、価値観だって変わっていくだろう。もしかしたら、ころっと恋に落ちて、結婚して子どもを授かったりするかもしれない。私もそういう未来の可能性を完全に断絶したわけではない。

性の「多様性」を自身で許容でき、優しく寄り添える世の中へ

現在日本では、平均結婚年齢はどんどん上がり、出生率はどんどん下がっている。貧困率は深刻化しつつあり、子育てもどんどん難しくなってきている。それにもかかわらず、政府は充分に支援するわけでもないのに「最低でも3人産め」などとふざけたことを言う。「同性カップルは生産性がない」と言った政治家さえいる。固い頭の中には、古い価値観が蔓延し、生産性がないのはどちらだと訊ねたくなる。

自分がセクシャルマイノリティであると意識ができてから、一気に恋愛というものが些細なことになった。恋愛をするもしないのも私の勝手。そして、他人の勝手なのだ。

もし、私の大切な姪や甥、それ以外の若い人たちが同じようなことで悩んでいるのなら、私はマイノリティの一例として、性の多様性を自身で許容できるように応援していきたい。そしてマイノリティでない人たちが、寄り添える世の中になることを願う。