ひとの人生にはそれぞれいろんな句点があって、もうその前はどう頑張っても絶対に戻れないような、そんな小さな丸がいくつも存在しているんだと思う。
それは大好きな人との出会いかもしれないし、心を奪われる映画を見たあとかもしれない。
わたしは自分の見た目を他者に意味づけられるたびに、ひどく動揺して、もうそれ以前の「私」ではいられなくなってしまっている。

同級生の男子に言われた「何あのブス」

私は雪国の小さな町で生まれた。
見渡す限り田んぼが広がるド田舎で、特に冬なんかは荒れた日本海と頭上に迫る分厚い曇天のおかげで町全体に演歌な雰囲気が漂っている。
そんないぶし銀な町の中で異彩を放っていたのは、お城の形をしたバカでかいごみ焼却場だった。

千葉舞浜にある東京を彷彿とさせるファンタジーな見た目で、外壁にはいわゆるお城的な窓がいくつも描いてあり、建物の中にはちょっとした展望台がある。
小学生の頃はこの展望台から町を見渡すのが好きだった。

「わたしの将来の好きな人がこの町のどっかにおるんかもしれん。大人になって、いろんな人に出会って、わたしもたくさん恋をするんや」少女漫画を社会の教科書代わりにしていた幼い私の妄想はごみ焼却場の煙とともに高く昇って行った。
だが、そんな甘い妄想は永遠に続くはずがなく、中学に上がるころには現実の社会と漫画の物語は全く別物だということがすぐにわかった

「何あのブス」

それがその言葉だった。
中学生のとき同級生の男子に容姿を批判されたのだ。
なぜ彼がわたしに「ブス」と言ったのか全く覚えていないのだが、言われたときの感情は今も鮮明に覚えている。
人は自分のキャパを超えた強い衝撃を受けると体の芯が凍るのだ。

「隣の席の子もみんな私のことブスって思ってるんかもしれん…」
昨日まで平気な顔をして道の真ん中を歩いていたのが急に恥ずかしくなった。
「私が思う私」と「他者が思う私」のギャップは凄まじいもので、私の脳みそに咲いていたお花はすべて枯れた。
それ以来、学校では人がたくさんいる廊下に出ることができなくなって、休み時間にトイレに行くこともできなくなった。前髪を伸ばして顔を隠し、毎日カラーコンタクトをした。

この世界には優劣があって、容姿のちょっとした違いに意味がつく

どこまでも横に広がっていた世界が急に縦になった。そこには優劣があるし、二重だとか、鼻が大きいとか容姿のちょっとした違いに意味がつく。わたしは自分をすっぽり覆う川の中にはいってしまったようだった、大きくて急な流れに逆らえず、ただ浮かんでいるだけで精一杯だった。

少し大げさだなと自分でも思う。「ブス」なんて言葉どこでも飛び交っているし、もっとひどく容姿を否定されることなんて誰にでもあるってわかっている。だけど、私はこの体験を忘れようとは思わないし、軽んじようとは思わない。
大きな価値観が自分を侵食していく過程はとても生々しくグロテスクだったし、それをすんなりと抵抗もせず飲み込ませてしまうこと自体に何か恐怖に似たものを感じる。

アジア人の私は、テラス席に座らせてもらえなかった

似たような体験を海外でしたことがある。
大学生の頃、アメリカに留学していた友人に勧められて1週間ニューヨーク旅行に行くことにした。空港から降り立った瞬間、見る景色がすべて映画のようで心が弾んだ。

ある日、朝食が絶品だとガイドブックに紹介されていたレストランを訪ねた。
開店直後だというのに店内にはすで数名のお客さんが入っていた。私はテラス席が空いていたのでそこに座りたいと希望したが、お店の人に案内されたのはなぜか店の奥だった。不思議に思っているうちに、私の席の周りは日本人や中国人などアジア人でいっぱいになっていった。それとは対照的にテラス席に案内されていたのは全員が白人だった。

「ブス」と言われたときと同じ感覚に襲われた。
私はアジア人だ。
とても当たり前のことであるはずなのに、私が私である前に何か大きなもので覆われて、着ぐるみを着ているような感覚に陥った。

世界に一つだけだから尊くて、そして、厄介

違いがあってそこに意味がある限り、わたしはずっと苦しんでもがいて芯から冷えていくのかもしれない。世界に一つだけだから尊くて、そして、厄介。今は私自身が他者を大きな流れに引き込んで溺れさせることがないようにするだけで精一杯だ。

ごみ焼却場のお城で町を眺める少女になんて声をかけよう。私はずっと自分の言葉を探していて、まだ見つかってない。